徳川忠長は当初「大大名」として優遇されていましたが、将軍になれなかったため、不満たらたらで行動がだんだんおかしくなっていきます。
最終的には家光に切腹させられてしまいました。
当時の細川忠利や島津家江戸家老の伝聞や観察によれば、寛永8年2月2日に酒に酔った忠長は、家臣の小浜光隆の子や御伽の坊主を殺害、その上翌日に殺害した者を呼び出す行動に出ている。その後も傅役の内藤政吉を甲冑姿で追い回し、殺害した禿(少女)を唐犬に食わせ、腰元の女中に酒を飲ませて責め殺すといった行為を行った。
「女の戦いで不運を背負った徳川忠長」
江戸時代のはじめ、春日局が三代将軍徳川家光の乳母として権勢をふるった。彼女は明智光秀の親族であり、実家は没落した身だ。
家光の実母のお江与の方(江(ごう))は、家光よりも弟の忠長を可愛がって将軍職に就けようとし、春日局といわゆる「女の戦い」をくりひろげた。
だが、春日局は庖瘡(ほうそう)にかかった家光を必死に看病するなど献身ぶりを示してアピールし、家光を立派な次期将軍として育てあげた。
徳川忠長供養塔
3月末には忠長の乱行を恐れた側近が近づかなくなり、彼には幼い2人の子供が仕えるに過ぎなかった。忠利は忠長のこれらの行為は酒乱ではなく発狂によるものとしている。