小動神社
鎌倉市腰越二丁目  標高:19.4m
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 小動(こゆるぎ)の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。

 縁起によれば、源頼朝に伊豆配流(はいる)の時代から仕えた佐々木盛綱(もりつな)が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請(かんじょう)したものと伝えられています。元弘三年(1333)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。

 七月第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭(てんのうさい)は、江の島の八坂神社との共同の大規模祭で、町一帯を回る御輿(なみこし)や氏子五か町の難子(はやし)屋台などで大いに賑わいます。 (案内板より)
・石造りの明神(みょうじん)鳥居(とりい)
・権現造(ごんげんづくり)の社殿
・本殿に向かって左奥には、「奉納八王子大権現社 享保十三年」(1728年)と彫られた石碑
・一部修復された鳥居があり、奥には奉納された海亀の形をした石の置物もあります。
・本殿左手には金刀比羅宮(こんぴらぐう)や稲荷社があり、本殿の向かい側には第六天社(だいろくてんしゃ)があります。

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就(じょうじゅ)の後に黄金(こがね)作りの太刀(たち)と黄金(おうごん)を寄進(きしん)したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離(しんぶつぶんり)で小動神社と名を改めました。また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
 石鳥居は1728年(享保十三年)銘の古い鳥居
 小動神社のある岬のことで、「八王子岬」「小動の鼻(はな)」ともいいます。江戸時代のころまで、岬の山上には1本の松の木がありました。この松は風もないのに枝葉を震わせて美しい音を発し、ちょうど天女(てんにょ)が音楽を奏(かな)でながら遊び戯(たわむ)れているような風情(ふぜい)がありました。そこで、この松を「小動の松」と呼ぶようになったということです。
 また、鎌倉時代、小動神仕をまつった佐々木盛綱(もりつな)が馬に乗ってこの地に来た折に、ふと見ると風もないのに松が動いて琴を弾いたような美しい音を出すので、不思議な松だといって
「小動の松」と名づけたともいわれています。
 これとは別に、松の動きをじっと見っめると先がゆらゆらと動いているようなので名づけられたとか、岩があって押すと動く「小動岩」というのがあったからだという説もあります。
 この岬は、七里ケ浜と片瀬・腰越の浜を東西に分け
ています。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)








 1333年(元弘三年)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願し、のちに太刀一振と黄金を寄進して、社殿が新たに再興された。そのため新田義貞を中興の祖と称している。
 鎌倉が自然の要害の地形をしていたので、山側からの侵入はきわめて難しかった。新田義貞は稲村ガ崎から侵入し、鎌倉は陥落する。鎌倉側から見れば、「海側から攻められるわけがない」という油断があったのだろう。義貞は、地元の古老から潮の潮位を聞き、干潮を利用したのだった。
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