鎌倉 関東大震災の津波がここまで来た「延命寺」

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 下馬一交差点の近くにある浄土宗寺院。山号は帰命山。もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。北条時頼室の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。
 運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。
 1923年の関東大震災では、滑川を遡上した津波がこの辺りまで来たという。


異常気象とは30年に一回起きる???

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 「自然災害に遭うことは仕様が無い」という時期が来てしまいました。これからは、災害に出会ったとき、相互の助け合いや、気持ちの立て直し方を身につける必要があります。相互の助け合いは、大都会では災害の規模、風土などを考えると非情に難しいことでしょう。また、気持ちの立て直しは、関東や東日本より、関西や西日本の風土の方が、早く立ち直れる風土のように感じます。地形も含め、どの地域に住むか、今まで以上に考えなければなりませんね!

鎌倉 北条は一族が最後を遂げた「東勝寺跡」

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 東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院。1333年5月22日、新田義貞鎌倉攻めの時、新田軍が、若宮大路まで迫ってきた事を知った北条は一族郎党870名余りとここに立て篭もり、火をかけて最後を遂げた。鎌倉幕府滅亡の地。
 寺はその後、直に再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となりましたが、戦国時代には廃絶しました。


自然とはいったい何か?

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 現代は、ついつい「自然は征服できる」という、欧米の風土に染まっていました。しかし、日本流の「自然と共存する」という風土に、戻す時期が来たようです。”クルマを前提”とした社会に移行してきたのですが、平野に人が集中し、また、斜面を削り、水が流れる沢筋を無視し、埋め立て、住宅地を開発しました。車が通る道を造るため、斜面を大幅に削り取り、不安定な住宅地を開発してきました。これからは斜面の移動手段をクルマにたよらず、エスカレーターや斜面エレベーターなどを開発し、車椅子がすれ違える程度の横道(廊下)を整備するような街づくりになると良いのですが!

尾道 中世時宗寺院の遺構が残る「常称寺」

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 鎌倉時代の後期の正応年間(1288~1293年)に、時宗二祖真教上人によって創建されたと伝わる古刹である。神奈川県藤沢市清浄光寺を本山とする。 1340年に足利尊氏が七堂伽藍を建立するも、本堂だけを残して焼失、その後再建と焼亡を重ね現在に至る。
 現存の本堂は、室町中期の建築で、外観を和洋、内部構成を禅宗様とし、内陣・外陣と脇陣を一体空間とするなど、中世時宗の特徴をよく表している。南北朝時代の作、重要文化財「紙本白描遊行上人絵伝」が伝わるなど、多くの寺宝が現在に伝わっている。中世時宗寺院は全国的に遺存例が少なく、そのなかでも室町時代の遺構が3棟も残っている例は希少。


血液中に不純物・老廃物!

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 食べ過ぎにより血液中の栄養が過剰になり、それを浄化した結果が動脈硬化とのこと。人類の歴史の中で、安定した食料を得ることができなかった時代がほぼ100%。今でも多くの人達は、食糧危機の状態にあります。そのような経過で遺伝子が学習しているため、よほど努力しないと、メタボは避けることができないのでしょう!

厚木 ヘビになった弁天様「浮島弁天社」

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浮島弁天社の由来
 明治初年のこと松下荻野山中藩士の企画により永い間水害をもたらした弁天様のある浮島を取り除く 爆破が無じ成功したがその直後不思議や弁天様の化身が現れた早速上依知村中が協力して当社を建立し弁財天を祀り 村の平安を祈念したのである。


呼び出しの問題!

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 携帯電話が普及し、歩いていても電話ができるようになりました。屋外では、携帯の呼び出し音には敏感に反応をするのですが、自動車、あるいは、自転車の接近には気づかず、事故に遭った人もいます。特に自転車の風の音や風圧などに気づく人は、ほんとうに少なくなっているのでしょう!


鎌倉 災難から日蓮を救った白い猿「長勝寺」

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 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝が日蓮に帰依し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺になったのを日静が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺と名付けられたと伝えています。


「危ないからしてはいけません」

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 街の中で、イヤホンを耳に着けている人をよく見かけます。危険の察知能力が大きく失われていることでしょう。というより、街の中に危険があるとは、思ってもいない人が増えているのでしょう。もっと、まわりの音に敏感になり、その音が危険を知らせているのかどうか、その察知能力を子供の時代に、身につけておいてほしいものです!

尾道 夜空を焦がす花火「住吉神社」

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 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。