東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院。1333年5月22日、新田義貞鎌倉攻めの時、新田軍が、若宮大路まで迫ってきた事を知った北条は一族郎党870名余りとここに立て篭もり、火をかけて最後を遂げた。鎌倉幕府滅亡の地。
寺はその後、直に再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となりましたが、戦国時代には廃絶しました。
北条得宗家の氏寺跡、鎌倉幕府滅亡の地として政治史的に極めて重要な遺跡で、1976年、1996、7年に行った発掘調査により寺院跡の一部が確認されています。この裏山に自害した一族の墓「腹切りやぐら」があります。
東勝寺は、執権北楽泰噂の招きで退耕行勇(たいこうぎょうゆう)が開いたと伝えられている大寺院でした。発掘調査によると、階段状の石段が造られ、とりでのようなっくりになっていたらしいことがわかってきました。出土品には、北条氏の家紋である三鱗(みつうろこ)の入った瓦や、中国から渡ってきたと思われる青磁(せいじ)の碗(わん)などの破片が見っかっています。
1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた北条高時(ほうじょうたかとき)は、この東勝寺に一族を集め、堂に火をかけて一族郎党800人余りとともに自害したといわれています。発掘調査の結果火災の跡が見つかりました。
140年余り続いた鎌倉幕府最後の地といえるこの東勝寺跡は、国の史跡で、世界文化遺産候傭地とされています。
東勝寺跡の前の道をさらに谷の奥に入ると、「東勝寺旧蹟」の史跡案内の石碑があり、そのすぐ左手に「高時の腹切りやぐら」があります。中には石を積んだ高時の墓と伝えられる五輪塔が、寄せ集めですが立っています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より