「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こう側に
鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。
医王寺からの景観は、松村呉春(江戸後期の画)ら、多くの画家の題材にもなっています。
また、文政9年(1826年)に、鞆に寄港したオランダの医師のシーボルトも、植物観察のために医王寺を訪れており、この景観を楽しんだでしょう。
瀬戸内の港街では、江の浦・焚場と医王寺、草戸千軒と明王院のように、集落の山手に社寺を置く、信仰の事例を多く見ることができます。
山手に並び立つ社寺の伽藍は、常に危険に立ち向かう海の民の心の拠り所でした。それとともに、港湾施設が不十分な中世までにあっては、わが港を目指すための大事な目印ともなったでしょう。
【鞆に見る歴史のロマン(福山市観光協会発行より)】
本堂はこぢんまりとしていますが、17世紀後期の優美な建築です。
さらに、山手に位置している社寺の境内は、いざという時には集落の人々が身を守るための砦として立てこもる場ともなったでしょう。現在の医王寺の壮麗な石垣は、福島正則の鞆城代大崎玄蕃が慶長年間(1600年頃}に修築したものですが、城下の背後を守る砦としての役割に着目したとも考えられています。
海の民であるこの地域の人々にとって、医王寺から自分たちの集落とその背後に拡がる瀬戸内の海の景観は、何よりもわが集落、海と、医王寺との強い結びつきを確かめさせてくれるものであったでしょう。
なお、寺の裏山へ続く小道をしばらく登った所にある「太子殿」からの眺望もまた素晴らしいものです。