荏柄天神社  祭神:菅原道真
鎌倉市二階堂74 標高 22.9m
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 日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)

 1104年の創建。荏柄天神社は鶴岡八幡宮が再造営されるさい、旧社殿の用材をもらい受けて建造されることが通例。現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築されたもの。

 菅原道真は、日本の学者の元祖の中の一人で、一流の政治家として活躍し右大臣にまでなった。33才の時には文部省次官クラスの地位と文章博士の位を得た。父祖以来の私塾である「藤原廊下(東大と京大を一緒にしたようなもの)」を引き継ぎ、そこの学長になった。
 57才の時、突如として右大臣の職を引き下ろされ、九州の太宰府へ追いやられた。その2年後に死んだのですが、死後のもてはやされぶりは異常です。すぐに元の官位に復し、90年後には正一位・左大臣、その半年もたたない内に太政大臣が送られました。
 菅原道真の死後、京都に伝染病が蔓延、雷の被害続出などの異変(“道真のたたり”と考えられた)を押さえるためだったのでしょうか。いまでも雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と言う地域があります。桑原は菅原道真の領地、そこには雷が落ちなかったため、雷様に「ここは桑原ですよ」と教え、雷を落とさないよう願ったためだそうです。
 天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めましたが、鎌倉では武家の誓約や武家政権を守る神社とされました。
 本殿(国重文)は、鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を移築したもので、鎌倉時代の神社建築を伝える貴重な建物です。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 参道の上空で大木が重なり合っている。
 右大臣だった道真は、政敵・藤原時平の陰謀で大宰府に流され、生涯を終えます。
 その死後から、皇居に雷が落ちたり、道真の失脚にかかわった人びとに不幸が襲ったりしました。人びとはこれらを道真のたたりと考え、霊をしずめるために社を建ててまつりました。
 このとき、ちょうど天神(雷神)信仰が芽吹きはじめていたこともあって、道真は天神さまと呼ばれるようになったのです。
 こうした、強烈な恨みを抱えながら亡くなり、たたりをなすようになった人びとの霊を「御霊」といい、
 二階堂鎮座。祭神菅原道真公。相殿に八雲大神・熊野三柱神を祀る。例祭七月二十五目。二十二日に八雲大神の神輿が出る。別に一月二十五日はに本来の例祭があり、筆供養を行う。元村社、二階堂区の氏神社。社伝によると、長治元年(1104)八月二十五日天神の霊此の地に降臨したので奉斎、後鎌倉幕府の鬼門鎮守の社として崇められたと伝える。弘安四年(1281)将軍惟康親王社殿を造営することあり、足利公方成氏のたびたびの参詣伏があった。また天文年間の社殿造営には、関を設けて関銭を徴した。
      菅原道真公一千年祭記念碑

そうした霊をしずめるために、神社が建てられることもあります。     








 現社殿は、鶴岡八幡宮の震災復興工事の際の仮殿を移したものであるが、荏柄社は八幡宮の旧殿を移落す慣例があった。社宝に天神像の彫刻・絵画など多く、社前の大銀杏と共に市指定の文化財とされている。
天満天神は古来学問の神として信仰が厚く、大宰府・北野と並んで三天神とよばれ、室町時代以降、詩歌の献詠が盛んであった。また寃罪を判ずるとする古い信仰もあって、『吾妻鏡』に渋川守兼の歌を献じて至心を訴えた記事が見えている。(白井)
[文献]『市史』社寺編、岡田実『荏柄天神社誌』(荏柄天神社)

「鎌倉 趣味の史跡めぐり」(長峰 五幸)より




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