来迎山引接院 正念寺(時宗)
尾道市西久保町  標高:7.2m
ウォーキング地図へ
 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。

 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。

 また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。

 「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。

 尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。
時宗 来迎山引接院 正念寺 縁起
 創建  天正二年(1574年)
 開山  遊行三十一代 遊行上人
 総本山 神奈川県藤沢市 遊行寺

 時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。当山は第三十一代遊行上人によって闘かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発擢したといいます。
① 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも診しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。
② 下陣の格天井には花鳥、山水、人物等百四十四枚の彩色回が嵌め込まれており、尾道市の有形民俗文化財に指定されています。これら奉納画の施主名には江戸中期の尾道を代表する商家の屋号が見えます。
③ 延命地蔵に安置されている等身大の木造地蔵菩薩立像(本當天井画と共に、尾道市民俗文化財に指定)は御利益あらたかで、日々参詣の人が絶えません。
④ また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。伝によると、この地域は昔、防地川西側の西国街道に沿ったところでしたから、往来の旅人はこの清水に喉を潤し、堂に足を休めて湯茶の接待を受ける慣わしがあり、俗に「防地の茶堂」の名で親しまれていました。
 この旅人への湯茶の接待に起因する「八朔施餓鬼会」や宗祖一遍上人以来の「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗風の町寺というべき存在と言えましょう。   (案内板より)
『心に妄念が起こると不安になり苦しくなる。妄念を払えば安らかになり楽になる』(時宗開祖一遍上人)
 時宗の開祖一遍は、家を捨て、妻子を捨て遍歴の旅に出ました。そして、五十一歳で他界するまで、その旅をつづけることになった人です。「捨聖(すてひじり)」の別名で呼ばれることがあるほど、徹底して「捨」を説いたことで知られます。
 一遍上人は「ものを捨てよ」という次元を
超えて、「知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下(きせんこうげ)の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また、諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて……」ということを説かれました。


 京都ではもう古いころから、毎年七月の二十四日には六地蔵詣りといって、多くの人が近在の村をまわって歩きました。村の方では休みどころをつくってお茶を出し、子供は道のはたの石仏をひとつ所に集めて来ました。そうしてその顔を白くぬってすべてこれを地蔵となづけ、花をたてて食べ物をそなえて、町から来た人に拝ませました(『山城四季物語』)。私などの田舎でも、夏の夕方の地蔵祭りは、村の子のもっとも楽しいときで、三角にむすんだ小豆飯の味は、年をとるまで誰でもみなよくおぼえています。土地によっては寒い冬のなかばに、
地蔵の祭りをした所もあります。伯耆(ほうき)国のある村では、それを大師講といって、十一月二十四日の夜の明けぬ前に、生のだんごを持ってみちの辻にゆき、それを六地蔵の石の像に塗りつけました。いちばん早くぬって来た者は、大きくなってから美しい嫁をもらい、いい男を婿に取るといっておりました。






 鎌倉風の様式、1574年建立、宝形造。
 本尊・阿弥陀如来坐像は全国的にも珍しい半跏座です。尾道市の文化財。
 踊念仏を復興し、継承しています。各行事で行われているようです。
 阿弥陀如来は、「なむあみだぶつ」と唱えてさえいれば、死後、極楽に連れて行ってくれる如来である。それも、善人ばかりに限定せず、信心の深さもあまり問題にせず、寛容に受け入れてくれるという、心掛けのよくない衆生にとってはありがたい如来さまなのだ。
 梵名はアミターバ、音写して阿弥陀となる。サンスクリットで「計量できない」という形容詞で、計り知れない寛大な心を持っているのだ。無量光(計り知れない智恵の光を放ち、衆生を救う)如来、無量寿(計り知れない寿命、生命力をもつ)如来と二つの別名を持ち、西方極楽浄土の教主なのです。


防地口へ:   西郷寺へ:   久保八幡神社へ:
1頁へ  2頁へ  3頁へ