開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。
本尊は「积迦如来立像」(運慶作、長5寸5分:室町時代の作。座間市重要文化財)で、造像当時は金箔神であったが、永い年月に剥落して現在ではわずかに衣丈のひだに残っているだけである。台座は後に補ったもの、光背は欠失している。
温和な顔立の内に高雅な気品が溢れている。この釈迦如来は当山の本尊である。
本堂北側の不動尊を祀る不動池には豊富な湧水が利用されています。
裏手の墓地には伊達正宗の好敵手で、豊臣秀吉の小田原攻めに参加し帰路当地で亡くなった岩城常隆(陸奥大館城主。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して戦功を立て、秀吉から所領を安堵されたが、北条家の降伏後間もなく、鎌倉で病没した。)(陸奥大館城主。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して戦功を立て、秀吉から所領を安堵されたが、北条家の降伏後間もなく、鎌倉で病没した。)の追善供養塔(五輪塔。座間市重要文化財)が伝わります。
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不動池に流れ込んでいる水は、裏山で湧水 している心岩寺湧水であり、水量も豊富といわれている。この近くで発掘された縄文中期の遺跡などから湧水としては生活価値の高い湧水であったと考えられている。
東日本では、縄文人の大きな集落がありますが、これは飲み水を確保しやすいためなのでしょう。西日本では飲み水の確保に困難な時期があるため、定住して、大きな集落をつくることは難しかったのでしょうか。