鎌倉 護良親王の遺子日叡が父の霊を弔うため「妙法寺」

 日蓮の御小庵が焼かれた後、ここには法華堂が建てられ、本圀寺(ほんこくじ)となりましたが、室町時代の初めに京都に移されました。その跡地に護良親王(もりよししんのう)の遺子(日叡(にちえい)が父の霊を弔うため、1357年(延文2年)に寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれています。
 妙法寺の寺名は日叡がいたところの妙法房(みょうほうぼう)から、山号は日叡の幼名りょう巌丸(りょうげんまる)から付けられたといわれています。
 この妙法寺は南北朝から室町時代にかけては寺の勢いが盛んで、塔頭が5院あったということです。また江戸時代、11代将軍徳川家斉(いえなり)が参拝し、明治30年ごろまで、将軍御成(おなり)の門があったといいます。