多福山一乗院 大宝寺(日蓮宗)
鎌倉市大町3-6-12 標高 11.9m
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 1399年 武将の佐竹義盛は出家して、家のそばに寺を建て多福寺と名づけた。やがて荒廃、1444年 一乗日出上人が再興した。そのさい多福の名を山号とし、一乗院大宝寺と改めた。
 

 常陸の御家人・佐竹氏の屋敷跡に建てられた寺院
 室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛(よしもり)が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺(ほんかくじ)を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。
 本堂には、本尊の三宝本尊(さんぽうほんぞん)と四菩薩像(しぼさつぞう)、その前に日蓮上人像(にちれんしょうにんぞう)、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天(しゅっせだいこくてん)と鬼子母神像(きしぼじんぞう)などがまつられています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 佐竹氏の始祖は、源義家の実弟の新羅三郎義光といわれる。その子孫である佐竹義重(よししげ)は戦国大名の威勢を確立し、その子の義宣(よしのぶ)が初代秋田藩主として大大名となり、江戸時代には秋田藩を統治して幕末を迎えた。このように平安時代から江戸時代をサバイバルした武家はきわめて異例である。
 新羅三郎義光は、戦国時代の武将武田信玄の先祖でもある。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。
 大宝寺のあるこのあたりは、「佐竹屋敷跡」といわれ、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の子孫で、鎌倉時代に常陸(ひたち)(今の茨城県)で勢力があった佐竹秀義(さたけひでよし)以来の佐竹氏代々の居住地といわれています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より







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