鎌倉時代に創建され、室町時代に足利尊氏により安国寺と改称された臨済宗の寺。
安国寺は、南北朝動乱の戦死者を弔うために、足利尊氏・直義兄弟が国ごとに造ったお寺です。この鞆の浦にある「備後安国寺」も、「1339(暦応2)年に尊氏が建立した」という『鞆浦志』(1748年)の記載から、室町時代の建物と考えられていました。
しかし、後の調査によって鎌倉時代に、金宝寺として創建されたものと判明しました。
国の重要文化財「安国寺釈迦堂」を筆頭に、作庭家・重森三玲が復元した枯山水庭園や本尊の「阿弥陀三尊像」、それに、「法燈国師坐像」など、文化財の宝庫です。
瑞雲山安国寺。元々は、無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年(文永十年)に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が、備後安国寺の前身です。
その後、室町時代に「安国寺」と改めました。室町時代の末期に同寺は衰退するが、毛利輝元、安国寺 恵瓊(えけい)が再興し、恵瓊が住持を務めていました。
恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の拡大に暗躍(ひそかに策動)したが敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。
それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったようです。
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安国寺本堂は大正9年(1920)に火事で焼失し、基礎の石のみ残っています。
木造阿弥陀如来および両脇侍立像
鎌倉時代に流行したいわゆる善光寺如来。この種木造としては日本一最大なものである。
木造法燈国師坐像(前側の坐像)
法燈国師は安国寺の創建者と伝わる愚谷和尚の師で、開山とされている。この像は国師69歳の寿像で内部に水晶五輪塔と法燈国師の1275年の文書と1664年の修理記が存在した。