小烏神社は、地元の人たちから「こがらっさん」の愛称で親しまれている神社。福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際に、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を造りました。その中心にあるのが小烏神社です。創建の年代はよくわかっていませんが、室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが起源ではないかといわれています。
12月には例祭である「ふいご祭り(鉄鋼祭)」も開かれます。現在の神社の境内は、1864(元治元)年に林半助らにより整地されたものだといいます。鞆鍛冶の伝統を今に伝えるお社さんです。
小烏の森つわ者どものときの声
小烏神社は南北朝時代の古戦場としても知られています。
1349(庄平4)年、足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬は、中国(長門)探題として鞆の浦の大可島城に赴任していましたが、ちょうどその頃、高師直(こうのもろなお)と直義が対立。のち、直義が高師直によって追われたことを知った直冬は、高師直・尊氏と兵馬を交えることになります(小烏の合戦)。
その骨肉相食む合戦の結果、鞆の浦の刀剣鍛冶が発達したのです。
隣の港まち尾道の浄土寺に、足利尊氏と後醍醐天皇の書状が残っており、この辺りの支配権を争っていたようです。
このあたりを鍛冶町といいます。昔の名残ですね。
ちなみに、鞆の浦北部の海岸通りには1km余り続く鉄工所街があり、今は寂れた印象を受けますが、江戸から明治にかけての海運業の発展と相まって大変栄え、昭和戦後まで活気がありました。
『鉄は熱いうちに打て』という諺は真理だ
「熱すぎる鉄は軟らかすぎるし、冷えすぎた鉄は脆(もろ)い。鋭い刃先を作るには、鍛冶屋は然るべきときに鉄を打たなくてはならない」。
「直感」ではなく『直観』必要だったため、神様に祈ったことでしょう。
(推理を用いず,直接に対象を捉えること。〔同音語の「直感」は感覚的に物事を瞬時にとらえることであるが,それに対して「直観」は推論を用いず直接に対象をとらえ,瞬時にその全体や本質をとらえる哲学用語として用いる〕と)
小鳥(こがらす)神社の祭神は小烏大神(コガラスノオオカミ)と天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)で、鞆鍛冶の氏神様です。
潮待ち港として繁栄した鞆の浦では、古くから船具加工が始まりましたし、南北朝・室町時代には刀鍛冶もいました。
天目一箇神は、金工の神。日本書紀神話では国譲りののち,大己貴神 (おおあなむちのかみ)を祭祀 する際に作金者 (かなだくみ)に任じられている。
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小烏大明神は(別称:建角身神(八咫烏))。
建角身神(八咫烏)は『古事記』『日本書紀』によると神産霊神(神産巣日神)のお孫神で神徳高く、国土開拓のために産霊の威徳をもって、神武天皇ご東征の折には先導を務めた。皇軍が熊野山中で荒ぶる神々に苦戦を強いられると、建角身神は八咫烏(やたがら
す)に化身し、賊軍の説得に努め、土着の神々を服属させると、ついには皇軍を大和国へと導き、大和平定に多大な功績をたてられた。
小烏大明神は古来より、国家国民の安穏をご祈願する土地の守護神であり、厄除け、家内安全など人々の暮らしを守る神として、また農耕をひろめ民生の
安定に努められたことにより五穀豊穣、殖産興業、商売繁盛など、そして御子神玉依姫を儲けられたことから、縁結び、子育ての神として今日まで篤く信仰されています。一方で、八咫烏(やたがらす)としてのご功績により、導きの神として方除け、交通・旅行安全など多方面に御神徳を顕わしておられるのです。