松石寺
厚木市上荻野4226  標高:144.5m
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 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。

 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)

 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。

 このお寺の裏山(華厳山)には四国八十八ヵ所を模した石仏群がある。この造立に当たり、江戸、武州各郡、駿州まで寄進を集め、また、近くに七沢石を産し、七沢、煤ヶ谷に多くの石工がいたためつくることができた。しかし、現在(1972年)では風雨、地震なのにより倒壊、損壊したものが多く、その順序もよく判らない。
【白狐のどくろ】

 厚木市上荻野に松石寺(しょうせきじ)があり、この寺は、弘法大師の開山といわれます。最初は真言宗の乗碩寺といい、数100年後の白陽和尚の時曹洞宗に改宗しました。ある時、白陽和尚をしたって一人の小坊主がやってきました。同寺には、30余名の修業僧がおり、小坊主の修業は住職から修業僧の衣食住の世話から、毎日の読経など休む間もないほど忙しく僧としての修業でもありました。
 この小坊主が、ある日、白陽和尚の前で、「私は狐であるが、和尚の徳を慕い、僧になりました。今日厚木村へ油買いに行き、その帰り道、一匹の犬にほえられ命をなくすところでした。私たち獣類は、人間と違って俗界を離れることが無理であることを悟りましたので、再び松石寺の裏山の穴にもどって狐として生きたい」……その後、同寺の裏山で、白狐のなきがらが発見されたとき、白陽和尚は、これをねんごろに葬り、そのどくろを本堂に移し供養しました。また、童子の像をきざんだ思い出の姿を、同寺内に納めてあります。
 「厚木の観光ポケットブック」(厚木市観光政策課発行)より
 松石寺の歴史は古く、寺に伝わる縁起によれば平安時代初期の大同年間(806~809)に、後に弘法大師と呼ばれた空海が33歳の時にこの地に来て、起立華厳経の経文の一文字ずつ小石に書き写した。その小石を国家鎮護の為として裏山の頂にあった盤石に収め、この地に一宇を開いたのがこの寺の始まりという。
 その後は「華厳山乗碩寺」と号し律宗の寺院として続いていたが次第に衰微していき、鎌倉時代に入ると荒廃していた。南北朝時代の貞治4年(1369)に雲血由(ウンシュウ)律師という僧によって寺の
 江戸時代ここに「新四国八十八箇所」があった。
 弘法大師(空海)と縁の深かった松石寺に「新四国八十八箇所」が作られたのは江戸時代後期の天保年代で、厚木市教育委員会による「野だちの石造物」では以下のように述べている。
 天保10年の秋頃、六十六部の廻国行脚をしていた糀屋惣兵衛という京都の商人が、相模国にやって来て松石寺に立ち寄った。惣兵衛はこの寺の起こりが空海にあったことを聞いたことにより、この地方の人母のために「新四国八十八箇所」の造立を思い立ったという。
再興が成り、その寺号も林徳院に変わった。
 室町時代中期の広山白陽律師の代に、曹洞宗を開いた道元の子孫にあたる天巽(リン)慶順に寺を譲ったことにより、それまでの律宗から曹洞宗に改宗して寺号も創建当初の乗碩寺に戻して開創したのであった。
 
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