鎌倉 100数基の小さな五輪塔が「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。

 本堂裏手の広場には、「三浦大介公の家来の墓」と表示された100数基の小さな五輪塔などが並んでいます。また、来迎寺会館の中には三浦義明の木像が安置されています。
 三浦大介は、源頼朝の挙兵の際に尽力し、石橋山の合戦に敗れた頼朝のもとに一族をむかわせ、みずからは衣笠城にとどまり平家方を迎え撃ち、畠山重忠の軍勢と戦い89才で戦死した三浦の豪族。

鎌倉 鎌倉幕府の礎石 三浦大介義明の霊を弔う「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 本堂の右には三浦義明の墓といわれる供養塔と、石橋山の戦いに敗れて三浦に引き返す途中で、平家方の畠山重忠(はたけやましげただ)軍に17歳の若さで殺された三浦一族の多々良良三郎重春(たたらさぶろうしげはる)の墓と伝えられている高さ2mほどの大きな五輪塔2基が並んでいます。

 戦で多くの人が亡くなっていますね。世界には戦に変わるやり方で、権力を手に入れる民族もいます。インド・ナガランド州に、20世紀末近くまで「首狩り族」として名をはせた民族が住んでいます。この民族は、一対一で強者・長者に挑戦し、その首を取ることを名誉とする民族でした。

 この行為をどのように見るか、悲惨なことと見るか、戦に比べればはるかに死者が少ないと見るか。
 第二次世界大戦頃から、基地や軍需工場の攻撃から無差別攻撃に移り、戦いで多くの人が命を落とすことが普通になっていますね!