鎌倉 下関赤間ヶ淵で網に掛かった釈迦如来像が「薬王寺」

 山口県下関のあたりの海で、魚がとれなくなった時期がありました。漁師達が、赤間ヶ淵(あかまがふち)と呼ばれるとても深いところに網を入れてみると、高さが17cmほどの小さな釈迦如来像が網にかかりました。その像は、背中に刻まれた文字から、中国の唐の時代の645年に作られた金銅製の珍しいものだったので、領主の原田氏は、どこへ行くにも持ち歩くほど大切にしていたということです。 原田氏は、薬王寺を再興した日達を崇拝していましたので、日達が薬王寺に入ったときにこの像を寄進したということです。その後、この像は2回も盗難にあったので、寺では代わりの釈迦如来像を造って釈迦堂にまつり、砂金で造られた釈迦像は本堂にまつるようにしたのだそうです。

鎌倉 源氏の旗、白旗に因(ちな)む「白旗神社」

 小田原を平定した秀吉は天正十八年七月十七日、奥州へおもむく途中、鶴岡八幡宮に参詣した。
 そして、白旗社の扉を開けさせ、源頼朝の木像にむかって話しかけたという。
「およそ微少の身で天下を取ったのは、わが国では御身(頼朝)と自分だけである。しかし御身は多田(源)満仲の後胤という名門の出で、しかも頼義・義家は東国に名を馳せ、為義・義朝も関東に威を張った。だから流人となっても、兵を挙げると関東のものがみな従ったので、天下を統一するのにたやすかった。自分はもともと氏も系図もない身であるのにこのように天下を取ったのだから、その功績は自分の方が勝っている。しかしながら御身と自分とは天下友達である」と、ひとりしゃべりおえると、頼朝の木像の背中をポンポンと叩いた、というエピソードがあります。

鎌倉 常に粛然と静まっている「成就院」

 坂の頂部に近い左手の石段を上ると、古義真言宗の寺、普明山成就院がある。
 山ノ内の長寿寺、円応寺などと同様、昔の高い道のところに置き去りにされた格好であり、この寺の場合は主要観光ルートから外れているので、常に粛然と静まっている。
 縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。
 寺宝としては、星の井から出た明星石のほかに本尊不動尊明王、繊細なきり金文様をそなえる千手観音像。それから文覚上人荒行像と呼びならわされているユニークな小像を持っている。

鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」

 白雲庵は円覚寺塔頭で、暦応3年(1340)に示寂(入寂)した円覚寺第10世東明慧日(とうみんえにち)禅師の塔所で、円覚寺の塔頭のひとつです。禅師は、北条貞時(時宗の子)が中国元から招いた高僧です。創建された、円覚寺の数ある塔頭の中でも、最も古い歴史を持っています。庵名の由来は、禅師が中国白雲山の住職だったこと、また「白雲抱幽石」という漢詩の一説に因んでいます。

鎌倉 病にご利益があるる瘡守稲荷も祀る「上行寺」

 上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。

鎌倉 石仏「百観音」を安置 「円覚寺 大方丈」

 百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされています。
 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。

鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」

 このあたりは源義朝の屋敷のあった所といわれています。源頼朝は鎌倉に入ると、父義朝ゆかりのこの地に屋敷や幕府を造ろうとしたのですが、狭いことと、すでに義朝の家来の岡崎義実が義朝をとむらうためのお堂を建てていたので、大倉(蔵)というところに、幕府や屋敷を構えました。
 頼朝が亡くなった後、夫人の政子は頼朝の遺志を継ぎ、1200年(正治2年)、栄西を開山に招き、2代将軍頼家を開基として、ここに亀谷(きこく)という山号の寺を建てました。3代将実朝もしばしば訪れ、やがて七堂伽藍というお堂をもつ立派な寺になり、塔頭も14を数えたといわれ、鎌倉五山の第三位となりました。1323年(元亨3年)の北条貞時十三回忌に、260人もの僧衆が参加する大寺院でした。

鎌倉 「日朝さま」といわれる「本覚寺」

 本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
 寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。
 日出上人の後を継いだ日朝上人は、幼いときから神童とよばれた優れた人で、身延山より日蓮聖人の遺骨をここに分骨し、祖師分骨堂が建てらた。また、自分の名を呼びながらお祈りすれば目の病を治してあげようとも言ったそうで、いまでも本覚寺は「日朝(にっちょう)さま」の愛称で通っている。 日蓮の生まれ変わりといわれるほどウルトラ秀才だったので、本覚寺には大物過ぎ、身延山に移り法主となった。

鎌倉 二本のタブの木が枝を広げる「八坂神社」

 道路脇の小川を渡ると石の鳥居がありへ左右の石灯籠(いしどうろう)のそばに、2本のタブの木が枝を広げています。社殿前の狛犬(こまいぬ)のそばに、枝をとり払ったけやきの根本が残っています。
 江戸時代に社殿を改め、場所も変わってきたということです。拝殿前に社殿の土地を寄進した人の記名碑が建っています。

厚木 平安初期の美人小野小町を祀る「小町神社」

 鎌倉時代、源頼朝の側室後の局ま頼朝の子を身ごもったことから、政子に恨まれて処刑されそうになりました。それを命じられた畠山重忠(鎌倉初期の武将)の家人本田次郎が心をひるがえして局を連れて、難波(大阪)へ逃げるという事件が起こりました。しかし、一説では、地元の豪族愛甲三郎季隆が局をかくまって、この山里に住まわせたと言い伝えられています。丹後の局は政子の恨みのためか、精神的苦しみからか、今までの黒髪が一夜にして老婆のような白髪に変わってしまいました。非常に悲しんだ局は小町神社の祭神の小町姫にお願いをして数日間祈願を続けたところ、不思議なことに、白髪がまた元のように黒髪に戻りました。

鎌倉 隣の光明寺より古い「蓮乗院」

 この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗の蓮乗院と改めたといわれてします。

「浄土宗の開祖:法然」
 ある人が法然上人に尋ねた。「念仏をしているとき、どうも眠くなって困ります。どうしたらよいのでしょうか?」
 すると、法然上人はこう答えられた。「それなら、目が醒めたときに念仏をされるとよい」と。

鎌倉2021年2月12日麻、火事「満福寺」

 この寺の開山は行基といわれています。寺の伝えによれば、奈良時代に関東地方に悪い病気が流行してたくさんの死者が出ました。聖武天皇はこれを心配し、行基に「これから関東に下って悪い病気を除くように。」と命じました。はるばる鎌倉に来た行基は、前に広がった青い海原と後ろの山並みがとても美しく見えたので、
 「ここでお祈りをしたら、きっと流行病もなくなるに違いない。」
と思いました。また、漁師が海難事故にあうことが多いと聞いたので、さっそく薬師如来、日光・月光菩薩の三尊を彫って祈りをささげると、不思議なことにあれほどはやっていた病気もぴたりと治まり、海難事故もなくなりました。

鎌倉 禅を世界的に広めた鈴木大拙ゆかりの「東慶寺」

 寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。
 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。
 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

鎌倉 洋画家の黒田清輝がアトリエに使った「啓運寺」

 開山は啓運日澄(けいうんにっちょう)です。日澄は、大町名越(おおまちなごえ)の同じ日蓮宗の妙法寺(みょうほうじ)の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷(まつばがやつ)に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 明治の中ごろ、洋画家として有名な黒田清輝が、この寺の本堂をアトリエに使い、「日蓮の辻説法(つじせっぽう)」の名画を描いたということです。

鎌倉 ぽたもちを日蓮に差し上げた伝説「常栄寺」

 黒塗りの山門があり、門柱の左右に、あざやかな朱塗りの鎌倉彫で作られた聯(れん)といわれる木板がかかっています。右に「ぼたもち寺常栄寺」、左に「たつのくち くびのおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち常栄寺」という歌が彫られています。
 「棚からぼた餅」といいますが、ここと関係があるのでしょうか?

鎌倉 鎌倉幕府、滅亡の地「東勝寺跡」

 東勝寺は、執権北楽泰噂の招きで退耕行勇が開いたと伝えられている大寺院でした。発掘調査によると、階段状の石段が造られ、とりでのようなっくりになっていたらしいことがわかってきました。出土品には、北条氏の家紋である三鱗(みつうろこ)の入った瓦や、中国から渡ってきたと思われる青磁の碗などの破片が見っかっています。
 1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた北条高時は、この東勝寺に一族を集め、堂に火をかけて一族郎党800人余りとともに自害したといわれています。発掘調査の結果火災の跡が見つかりました。

鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」

 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり。
 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。

鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」

 参道入口の近くに石の門柱があり、「天照山(てんしょうざん)鍛錬所(たんれんじょ)」」と書かれていました。第二次世界大戦中に海軍の軍刀を作った鍛冶場である「天照山鍛錬所」がこのあたりにありました。
 総門の右手前には「関東総本山(かんとうそうほんざん)」と刻まれた太い石の角柱が立ち、目をひきます。また、総門の右手には「大本山光明寺」と書かれた石柱が立っています。

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

 日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)
 1104年の創建。荏柄天神社は鶴岡八幡宮が再造営されるさい、旧社殿の用材をもらい受けて建造されることが通例。現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築されたもの。
 天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めましたが、鎌倉では武家の誓約や武家政権を守る神社とされました。
 本殿(国重文)は、鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を移築したもので、鎌倉時代の神社建築を伝える貴重な建物です。