浄土宗三祖光明寺開山 良忠上人御廟
念仏僧の代表者の一人、然阿良忠。石見国三隅荘(島根県)に生まれた人。深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。法然からかぞえて三代目の人。62歳の頃に鎌倉に入り、布教と弟子の育成に取り組み、鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。78歳の時、在京の門下の招請により、京に上がり布教、著述に励んだ。その後、88歳の時鎌倉に帰ったが、翌年89歳の高齢で入寂した。
その後、生前の功績が認められ伏見天皇より「記主禅師」の謚号を賜った。本堂横の池のある庭園が記主庭園と名付けられているのはこのことに由来している。
正面奥の中央にある約2mの大きな無縫塔(むほうとう)ともいわれる卵塔(らんとう)が開山の然阿良忠(ねんありょうちゅう)の墓です。六角台に「開山(かいざん)記主禅師(きしゅぜんじ)」と刻まれています。周囲には30余の歴代住職の卵塔が立ち並び、見事なものです。
墓地の左側にはま開基の北条経時(ほうじょうつねとき)の墓といわれる2mを越す宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、経時が亡くなった「寛元四年」(1246年)と、この石塔が立てられた「享保五年」(1720年)の年号が刻まれています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
良忠は師の聖光(しょうこう)から善導大師の木像を譲られましたが、諸国を廻るのには持ちにくいので「ゆかりの地にこの像をまつりなさい」と九州で筑後川に流したところ、それが海を漂流して由比ヶ浜に打ち上げられたので、光明寺を開き、まつったという伝説があります。
良忠の墓(無縫塔=卵塔の形式)。
無縫塔(むほうとう)は、主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)で、塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。また、墓場のことを「卵塔場」という。無縫塔は、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。