鎌倉 日上人修行の血の池がある「妙隆寺」

妙隆寺の鍋かむり上人

 辻説法跡の次の妙隆寺にも、熱狂的・行動的な日蓮宗の僧侶がいました。この寺の第二祖日親上人です。
 日親は、この寺で激しい修行をした後、京都に本法寺を開き、日蓮にならって辻説法を行い、日蓮宗の布教につとめました。そして時の室町幕府六代将軍足利義教に直訴を行い、「立正治国論」を執筆しました。日蓮が受けた法難を自らも受けよう、追体験しようという強い意志が感じられます。しかし幕府はこれを許さず、日親をとらえて、真っ赤に焼いた鍋を頭からかぶせました。これが「日親上人鍋かむり」の伝説です。
 日親はこのとき34歳。将軍義教はまもなく赤松満祐に殺され、日親は出獄。再度獄につながれたりもしますが、応仁の乱へ突入して行く乱世の中、日親はめげることなく京都の町衆へ日蓮宗布教につとめ、82歳まで生きました。