叡昌山 妙隆寺(日蓮宗)
鎌倉市小町2-17-20 標高: 8.7m
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 寺伝によると、1385年(至徳2年)、日英を迎えて寺か建立されたそうです。

 山門を入ると、正面の本堂の右手には「血の池」と呼ばれる日上人修行の池があります。その奥には、日親石像を安置する日親堂があります。
 日親が21歳のとき、「仏の教えを広めるためには、苦しみに負けないように修行しなければならない」と考え、百日間境内の池で水を浴びてお経を唱えました。それから、毎日自分の爪を1本ずっ抜き、出てきた血で墨をすり十界の曼荼羅(まんだら)をかいたそうです。そして、熱い湯の中に手を入れ、その湯がさめるまでお経を唱えたそうです。曼荼羅とは仏の世界や教えをわかりやすく図に示したものです。
 その後、京都で室町幕府の6代将軍足利義教(あしかがよしのり)に『立正治国論(りっしょうちこくろん)』という意見書を出し、政治の悪いやり方を直させようとしましたが、捕えられ数々の拷問を受けました。その最後に、焼けた鍋を頭にかぶせられるという刑を受けたそうです。しかし、それでも、熱心に教えを広めたといわれています。そして、「鍋かむり日親」という名を残しました。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 参道
妙隆寺の鍋かむり上人

 辻説法跡の次の妙隆寺(みょうりゅうじ)にも、熱狂的・行動的な日蓮宗の僧侶がいました。
 この寺の第二祖日親上人(にっしんしょうにん)です。
 日親は、この寺で激しい修行をした後、京都に本法寺(ほんぽうじ)を開き、日蓮にならって辻説法を行い、日蓮宗の布教につとめました。そして時の室町幕府六代将軍足利義教(よしのり)に直訴を行い、




「立正治国論」を執筆しました。日蓮が受けた法難を自らも受けよう、追体験しようという強い意志が感じられます。しかし幕府はこれを許さず、日親をとらえて、真っ赤に焼いた鍋を頭からかぶせました。これが「日親上人鍋かむり」の伝説です。
 日親はこのとき34歳。将軍義教はまもなく赤松満祐に殺され、日親は出獄。再度獄につながれたりもしますが、応仁の乱へ突入して行く乱世の中、日親はめげることなく京都の町衆へ日蓮宗布教につとめ、82歳まで生きました。
 山門
 そして日親が唱えたのが「不受不施(ふじゅふせ)」の思想でした。他教を信じる人からは布施を受けず、自らも施さないという、純粋と言えば純粋、狭隘と言えば狭隘な、原理主義的教えです。妥協を許さない、熱狂的な行動者らしい考え方です。
 こののち江戸時代には不受不施派は切支丹と並ぶ禁制となって弾圧され、明治政府に解禁されるまで地下へもぐっていました。意志の強い人たちです。








 本堂
池の前の看板には

当山第二祖 なべかむり日親上人行法御池之霊跡

 応永三十四年(1427)の冬、上人が21才の時、「大法弘通に耐え得るや否や、自らの忍力を試さん」と寒中、雪の日、氷張る早朝霜踏み、この池に身を浸すこと百日間、毎日自我偈百巻、お題目、千遍を日課として法華経を弘通されました。
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