宝善院(真言宗大覚寺派)は、加持山霊山寺・泰澄山瑠璃光寺という2つの山号寺号をもち、院号が宝善院。
開山の泰澄は、「越の大徳」(越前(福井)・越中(富山)・越後(新潟)で並ぶ者のいないほどの徳の高い僧)と呼ばれていた。加賀の白山を開いた人物。
江戸時代には、この寺の僧が龍口明神社の別当に任じられたこともある。
村人の信仰を集め栄えたが、明治の神仏分離によって、静かな寺となった。
“越の大徳” 泰澄大師の十一面観音伝説がいきるお寺さん腰越にある真言宗のお寺さんです。腰越の海近くの山裾にあり、とても静かで清々しい空気があります。白山信仰の神の山、白山を開き“越の大徳”といわれた泰澄大師が開いた寺院としても存在感があります。
もとは泰澄山(たいちょうざん)瑠璃光寺(るりこうじ)ともいったと伝えられています。奈良時代の天平神護(てんぴょうじんご)年間(765年~767年)に越後(えちご)の国の僧で越(こし)の大徳(だいとく)といわれた泰澄(だいちょう)が、日ごろ信仰していた十一面観音をこの土地にまつったのが寺の起こりだと伝えられていますがはっきりしていません。泰澄は、加賀(かが)(今の石川県)の白山(はくさん)を開いたといわれる人です。越というのは、越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)の三国をまとめた呼び名で、今の福井・富山・新潟の三県のことです。また大徳(だいとく)というのは、並ぶ者のないほど徳の高い僧であるということです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
が五区にわかれた珍しい銅鐘もありましたが、第二次世界大戦のときに供出(きょうしゅつ)してしまったそうです。墓地には、江の島の総別当(そうべっとう)を勤めた岩本院(いわもといん)の歴代の住職の墓があります。岩本院というのは、岩本坊ともいわれ、江の島の本宮を管理していました。
江戸時代には宝善院の僧が龍口明神(たつのくちみょうじん)に任ぜられ、それからは村の御嶽大権現社(みたけだいごんげんしゃ)・春日社(かすがしゃ)・第六天社・観音堂などたくさんの神社や寺の仕事を全部することになり、
宝善院は村人の信仰の中心として栄えましたが、明治時代になって神仏分離(しんぶつぶんり)が行われると神社はなくなってしまいました。以前は、4月の鎖大師(くさりだいし)(青蓮寺)の法要には、片瀬・腰越の信者達はこの寺の前を通るのが本道だというので、乗り物に乗らないでわざわざ遠回りをして
歩いて出かけたそうです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)