観音堂跡
宝善院の山門を出てI100mほど戻り右折して道なりに250mほど進むと、右手に庚申塔(こうしんとう)や六地蔵がまつられている道があり、その奥に観音堂墓地と呼ばれるところがあります。
昔、このあたりに十一面観音をまつった観音堂があったことからそう呼ばれています。この十一面観音像は現在、宝善院にまつられていますが、この観音像には次のような話が伝えられています。
明治の初めごろ、この付近に住んでいた木材から板や角材を作る
仕事をしていた人の夢枕に観音様が立たれ、
「わたしは長いことここに住んでいますがもうこのように堂は荒れ果ててしまいました。縁日になっても誰も供養してくれません。」
といいました。その人は驚いてお堂へ行ってみると、なるほどお堂はみるかげもなく荒れ果てており、
このことを宝善院の住職や世話人に話しました。そしてみんなで相談して盛大に供養をしました。また、これはきっと観音さまが安住の場所を探しているためだろうと考え、観音像を宝善院に移したということです。(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
「弘法大師」の名で知られた真言宗の開祖空海は、讃岐(香川県)出身で、十五歳で上京。大学に入学し儒学を習いますが、中退して出家、仏門に入ります。
三十一歳のとき、唐に渡って密教を学び、二年後に帰国。その後は嵯峨天皇より高野山や東寺を賜り、密教の研究に没頭し、そして真言宗を開きました。
弘法大師と呼ばれる空海は、日本最高の書家の一人としても有名です。
彼は、「その字を書くときは、その気持ちになれ」といっています。
阿弥陀池跡
観音堂跡(かんのんどうあと)から庚申塔(こうしんとう)や六地蔵のところまで戻り、右折して50mほど行き右手に入ると腰越小学校があります。腰越小学校があるところには阿弥陀池(あみだいけ)と呼ばれる池があり、その池について、次のような話が伝えられています。
723年(養老7年) 3月、江の島にいた泰澄(たいちょう)が、毎日お経を唱えながら龍口山に船でお参りをしていました。龍口山の北東にあたるところには、ニつの池がありましたが、泰澄は、その一つに
その水天宮も埋められました。現在は、そのあたりに貯水槽がありますが、湧き水なので池のなごりかとも思われます。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
光明真言(こうみょうしんごん)を書いて入れ光明真言池と名づけ、もう一つの池には南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の6文字を書いて入れ阿弥陀池と名づけたそうです。『江の島大草子(おおぞうし)』に、腰越や江の島一帯の地図が載っていますが、それを見ると龍口山の畑の中に、このニつの池が描かれて
います。光明真言池はその後なくなってしまいましたが、阿弥陀池は、明治時代まで残っていたといわれています。1904年(明治37年)に腰越小学校が現在地に移転したときに一部が埋め立てられましたがその面影を校庭の南西の一角に残し、水天宮(すいてんぐう)をまつりました。しかし、第二次世界大戦後、