天照山 千手院(浄土宗)
材木座6丁目12-8  標高 6.0m
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 光明寺山門の左手にある千手院は、光明寺の支院。専修院と呼ばれていた時期もあった。

 開山・創建年は不明(関東大震災で文献を失った)。
 本尊は千手観音で鎌倉観音巡礼。
 
 千手院は、光明寺の僧坊だったと伝えられ、各地からの学僧の修行道場として栄えた。
 江戸時代中頃になると学僧が減少し、住職が子どもたちに読み・書き・そろばんを教える寺子屋となり、明治時代には桑楊学校と呼ばれていた(芭蕉の句が刻まれた寺子屋の記念碑がある。)。
 光明寺が「檀林(だんりん)」という仏教の最高の学問をおさめるところであったとき、各地から多くの学僧が集まってきました。千手院は、そうした学僧達の修行道場である僧坊(そうぼう)の一つでした。代々の住職は学頭(がくとう)といわれ、学僧達の指導者だったといわれています。学頭の墓のいくつかが本堂左手の墓地にあります。
 江戸時代の中頃からは学僧の数も少なくなったので、住職は近所の子ども達に読み書き、そろばんを教えるようになったようで、境内には寺子屋の記念碑が立っています。

 明治(めいじ)になってからも、1882年(明治5年)から1893年(明治26年)まで「桑楊(そうよう)学校」と呼ばれる小学校の教場となり、材木座の子ども達が通ったということです。

 また千手院は、千手観世音をまつる観音堂でもあったようです。はじめ専修院(せんしゅういん)といって、貞享(じょうきょう)年間(1684年~1688年)まで、念仏の道場として広く一般の人々にも親しまれていたといいます。その後、阿弥陀如来を本尊とする寺院になりましたが、千手観世音で知られていたため、寺名を千手院と改めたということです。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 朱塗り塀と山門があり、山門右脇に「千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ) 千手院」の石柱が立っています。山門を入ると境内には、板東(ばんどう)三十三ヶ所観音霊場巡拝(かんのんれいじょうじゅんぱい)の記念碑などいくつもの石碑が立っているのが目につきます。



 参道を奥に進むと、本堂と庫裏(くり)があり、本堂には、清水寺(きよみずでら)式という二本の手を頭上に乗せた珍しい十一面千手観音や阿弥陀如来(あみだにょらい)・法然上人・大日如来像などが安置されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より




光明寺: