北条氏康が開基、知阿上人を開山とする時宗の寺。
もとは光明寺の境内にあった寺で、この地にあった光明寺の末寺、善昌寺が廃寺になったので、1678年に貴誉上人が移建したといわれている。
本尊の阿弥陀如来像は運慶作で、一ノ谷の合戦に敗れた平重衡が囚われの身となって鎌倉に連れてこられたとき、源頼朝が、平家一族の冥福を祈るために籠堂を建立し、阿弥陀三尊を奉安したもの。
開山は知阿(ちあ)です。小田原北条氏3代目の北条氏康(うじやす)が光明寺(こうみょうじ)境内に建てたのが始まりといわれています。
このあたりはもと米町(こめまち)と呼ばれていて、ここには以前、光明寺の末寺の善昌寺(ぜんしょうじ)がありましたが、いつの頃か廃寺になり、1678年(延宝6年)、貴誉(きよ)が光明寺境内から教恩寺を現在の大町に移したといわれています。
1937年(昭和12年)ごろ、境内から古銭がいっぱい入った古い壷が出土しました。銭は中国の宋(そう)や明(みん)の時代の銅銭で、鎌倉時代や室町時代にこれらの銅銭が使われたことがわかる貴重な資料といえます。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
宋銭は、商業に力を入れたい平家が、わざわざ外国の貨幣を買ったのです。経済があまり発達していない日本にいきなり膨大な宋銭を流通させたため混乱が起き、当時の記録には、天下が「銭の病」に悩んだとあり、大インフレが起こったと推測されています。
「十六羅漢」の人達
お釈迦様は、入滅の際に仏法を護って伝えていくよう十六人の弟子に遺言しました。
1.賓度羅跋羅堕闇尊者
2.迦諾迦伐蹉尊者
3.迦諾迦跋産堕閣尊者
4.蘇頻陀尊者
5.諾矩羅尊者
6.跋陀羅尊者
7.迦哩迦尊者
8.伐闍羅弗多羅尊者
9.戎博迦尊者
10.半諾迦尊者
11.羅怡羅尊者
12.那伽犀那尊者
13.因掲陀尊者
14.伐那婆斯尊者
15.阿氏多尊者
16.注荼半託迦尊者
山門には、釈迦からこの世にとどまり仏法を護るように命じられた十六羅漢の彫刻があります。
静かで、ひっそりとした境内。
次
頁
へ
本堂。
本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)は、運慶(うんけい)が刻んだものと伝えられていますが明らかではありません。
平家(へいけ)が滅亡し、平清盛(たいらのきよもり)の子で東大寺(とうだいじ)焼き討ちを
した平重衡(しげひら)か捕えられて鎌倉に連れて来られたとき、この阿弥陀如来像を頼朝(よりとも)が、一族の冥福(めいふく)を祈るようにと重衡に与え、重衡はこの阿弥陀如来を深く信仰したといわれています。
この阿弥陀如来像と両脇侍(りょうわきじ)の
観音(かんのん)・勢至音薩像(せいしぼさつぞう)は、鎌倉前期のものですが、公開されていません。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より