以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。
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鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝える「英勝寺」
鎌倉 素朴な一木造の薬師如来像「辻薬師堂」
鎌倉 江ノ島電鉄設置で移した「諏訪神社」
鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」
鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」
鎌倉 銭を洗うと百倍、千倍になるという「銭洗弁天」
鎌倉 芝増上寺から移設も「建長寺 仏殿、法堂」
鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」
鎌倉 日蓮宗最古の三寺院の内の一つ「妙本寺」
鎌倉 白い猿が日蓮を救った草庵跡に「長勝寺」
鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」
鎌倉 若狭局を祀る社「蛇苫止堂」
源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。
鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」
鎌倉 平家一族の冥福を祈るために「教恩寺」
鎌倉 日蓮の弟子の四条金吾頼基の屋敷に「収玄寺」
鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」
坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)です。延暦20年(801年)坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。
日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍したころ、富士山が大噴火した最初の記録が残っています。富士山の噴火記録は、奈良時代の末期からあるのですが、大噴火の記録としてはこの延暦の噴火(西暦800~802年)からです。
鎌倉 夢窓疎石の塔所、関東夢窓派の拠点「黄梅院」
円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。山号は伝衣山(でんねさん)。本尊は千手観音像。五山文学で有名な造庭で有名な夢窓疎石の塔所です。疎石は建治元年(1275)生まれ、京都南禅寺に入寺した後、鎌倉瑞泉寺を開き、元徳元年(1329)に円覚寺五十三世として入寺。後醍醐天皇や足利尊氏の帰依を受けました。観応二年(1351)に死去、臨川寺に葬られましたが、後の文和三年(1354)に弟子の方外宏遠によって円覚寺内にも塔所が造られました。生前、黄梅院は夢窓派の活動拠点となり、また応安元年(1368)に足利尊氏の子、二代将軍足利義詮の遺骨を分骨したことで、さらに発展しました。しかし、足利氏の外護を受けていた時代が終わると、衰微していきました。



















