山号を新居山(しんきょさん)といい、十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれていますが、もとは新井(あらい)(荒井)の闇魔堂(えんまどう)というお堂だったといわれています。新居の閣魔堂は、知覚禅師(ちかくぜんじ)が1250(建長2年)に建てた寺で、はじめは甘縄神明(あまなわしんめい)神社の近くの「由井郷見越岩(ゆいごうみこしいわ)」にありましたが、足利尊氏によって海辺に移されました。材木座の九品寺の近くに「新井閻魔堂祉(あらいえんまどうあと)」の史跡案内の石碑があります。新居の閣魔堂はその後、1703年(元禄16年)に地震や津波でお堂が壊れたので、まもなく現在の場所に移されました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
「地獄の十王たち」
地底をゆるがす大音声で断罪を下し、「いいえ、それは違います」と一言でも蚊細く抗弁しようものなら獄卒に目くばせし、間髪を入れず浄破璃の鏡の覆いを取りのけさせる。……と。
親を足蹴にかけた。
人妻の寝室に入り、邪な快楽を分け合った。
隣の犬が吠えて八釜敷(やかまし)いとて毒殺。
盗み。嘘言。偽り。虚栄。ハッタリ。怠惰。無慈悲。不まじめ。数知れず。
かくて亡者は勝ち誇る牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼に引きすえられ、口をこじ開けられ、大きな専用道具でギリギリグイッと舌をひん抜かれ、ギゃアと叫んで悶絶する。
円応寺では正面の帳(とばり)の陰に一きわ巨大な間魔大王がすわっている。他の九王は一段低い左右に居流れ、普通の仏教寺院と違う、異様な圧迫感を漂わす。
このエンマ様は伝運慶作。彼が死に、冥途を旅して閤魔大王の前まで来たところ生きているとき、天才仏師としての手腕と業績が顕著であると認められ、突如生き返った。そのときの大王の様子を刻んだものと伝えられるが、本当かどうか。
エンマは梵語ヤマの漢音訳であって、瑛魔、炎魔、夜魔などとも音写されるし閣魔天とか死王とかいうこともある。
古代インドから中国を経由して我国へ来たものだが、本来は人類最初の死者であって双児と考えられていた。ヤマの方は男の死者を司り、妹のヤミーの方が女性の死者を扱っていた。 中国へ来ると、道教の地獄思想と仏教の地獄観が混交し、ヤマの姿も次第とおそろしくなつてくる。(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」 長峰五幸著より)
仏殿には、本尊の運慶の作といわれる閻魔大王を中心とした十王像や死者が渡るといわれる三途の川で死者の着物を奪う奪衣婆の木像が並んでいます。
【運慶の伝説】
運慶は、鎌倉時代の有名な仏像を彫る人で、東大寺南大門の仁王像を彫った人ですが、円応寺の閣魔大王像を彫ったときの話として、次のような伝説があります。
運慶が病気になって、死にそうになっときのことです。秦広王・初江王・宋帝王・五官王の
茅葺の鐘楼
境内には、瓦葺く(かわらぶき)の仏殿と、その右側に庫裡(くり)、手前に茅葺(かやぶき)の鐘楼(しょうろう)が並びます。
次
頁
へ
仏殿
仏殿内部は撮影禁止です。
それぞれの裁き受け、閣魔大王の前に出ると、
「おまえが運慶か。世間ではわしのことも涙もないやつといっているが、そうではない。わしは人間の生きていた間の行いについて裁く裁判官で、つまり正義の味方だ。わしの姿之をよく見ておけ。もう一度生き返らせてやるから、わしの姿を
そのまま彫刻して人間どもに見せてやれ。」
と閣魔大王が言いました。その後、運慶は生き返り、そのときの記憶をもとに彫ったのが、高さが1.9mもあるこの閣魔大王像だといわれています。口を大きく開き、笑っているようにも見えるので「笑い閣魔」ともいわれています。
仏殿には、本尊の運慶(うんけい)の作といわれる閣魔大王を中心とした十王像(じゅうおうぞう)や死者が渡るといわれる三途(さんず)の川で死者の着物を奪う奪衣婆(だつえば)の木像が並んでいます。十王は、冥土(めいど)の世界で死者の罪を順番に裁いていく王で、