蛭子神社
鎌倉市小町2-23-3 標高 7.5m
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 祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)

 昔、夷堂橋付近にあった夷三郎社という神社が、本覚寺創建の際に境内に移され夷堂となった。その後、明治の神仏分離の際にこの地に移り、同地に祀られていた七面大明神と宝戒寺前の部落の氏神であり、北条氏の守神だった山王大権現とともに合祀されて蛭子神社となった。

 本殿は1923年の震災でこわれたが、1933年、建て直された。

 「蛭子」は「えびす」とも読み、七福神のえびす様でもある。

 「蛭子」とは、「日る子」の意で太陽神として崇拝するとか。
 昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまっられていました。
 本版は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。

 例祭は、9月15日です。夷堂は、今は再び本覚寺に移されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 社殿。
 蛭子(男性の太陽神で、発育が悪いために海に流され捨てられた。要するに小さ子の神話)
 この辺は大倉の頼朝幕府の裏鬼門にあたるので、頼朝は夷神を祀って幕府の守護神とした。




 組物の細工がたくみ。瓦がせり出ている。
 日本神話によると、伊弉諾命(いざなぎのみこと)と伊弉冉命(いざなみのみこと)の間に蛭子(ひるこ)という子が生まれた。しかし蛭子は生まれつき足が不自由であったことから、船に乗せられ、海へ流されてしまう。海上を漂っているうちにたくましく生まれかわつたのが夷神という。夷とは語の
ニュアンスからしても「どこの馬の骨かわからぬ、どこか遠いところからやってきた」という語感がある。 江戸期の民間信仰では恵比須と書かれ具体的には、風折帽子に狩衣指貫姿で鯛の大きな奴を抱え釣竿をもってニコニコとしてござる。誠に陽気な庶民的な神であって、漁業・航海・
商業のシンボルとされている。
 恵比寿神がタイを持っている理由は、事代主神とも同一視されているので、日本神話で事代主神が釣りをしていたという故事に基づき、恵比寿神といえぱ釣り、タイというイメージが生み出されたという。
(「神社のどうぶつ図鑑」 茂木貞純監修より)




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