尾道 絶景の山頂「浄土寺山」

 瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
 尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
 特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。

鎌倉 お茶屋の奥のお堂「岩窟不動尊」

 ここの堂守の僧が勝長寿院(鎌倉市雪ノ下にあたる相模国鎌倉大御堂ヶ谷に、鎌倉時代初期に源頼朝が建立した寺院)に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。
 今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。

福山 かつては海辺に寄った所に「本願寺」

 時宗寺院の多くは海港に分布しています。福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったのですが、永海寺は1754年に焼失し今はありません。本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われた。隣の港町尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺、慈観寺等が存しています。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。ちなみに寺院の呼称に沖を用いるのは時宗のみだそうです。

鎌倉 縁結び観音も祀る「佐助稲荷神社」

 佐助稲荷神社の下社の横に小さなお堂があります。そこに「縁結び観音」として信仰されている十一面観音が安置されています。
 良縁に恵まれず、諦めて出家した赤松幸運が、この世の若い男女に良縁があらんことを祈って彫った像と伝えられています。
 この像は、徳川時代に足柄郡の尼寺から移されたのだそうです。
 十一面観音は、十一の小面(菩薩面、忿怒面、笑面など)をつけた観音様で、十一の面はすべての人々を救うために、四方八方を見つめており、救済の働きが多面的であることを象徴しています。

厚木 安産願いに火伏のご利益も付く「春日神社」

 祭神の武甕槌命は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)の首を斬り落としたときに、流れ出した血から生まれた剣の神とされています。
 とりわけ、武甕槌命の活躍のハイライトは、国譲りの場面。
 武甕槌命は、高天原(たかまがはら)の天照大神の命令で、地上の支配者の大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りの交渉をする最後の切り札として派遣されました。
 いよいよ大国主命と対峙したとき、十柄剣(とつかのつるぎ)(長い立派な剣)を、切っ先を上にして波頭に立て、その上にあぐらをかいて威嚇しました。
 そうして交渉を進め、大国主命に地上統治権の譲渡を承諾させる功績をあげたとされています。

尾道 大草鞋の大男がいるよ、悪いことはダメ「西国寺山門」

 西国一の大寺。徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す”調伏”がこの大寺で行われた、とある。
 昔から真言密教は、どろどろとした人間の最も暗部の欲望を開放する宗教。人を生かすことも、人を殺すことも宗教の重大な役目だった、と。だから信長は光秀に本能寺で殺されたのだろうか? と考えてみるのも面白いですね。
 信長の暗殺された「本能寺の変」についての計画が、この辺り(備後)で行われたという妄想もできます。

鎌倉 下関赤間ヶ淵で網に掛かった釈迦如来像が「薬王寺」

 山口県下関のあたりの海で、魚がとれなくなった時期がありました。漁師達が、赤間ヶ淵(あかまがふち)と呼ばれるとても深いところに網を入れてみると、高さが17cmほどの小さな釈迦如来像が網にかかりました。その像は、背中に刻まれた文字から、中国の唐の時代の645年に作られた金銅製の珍しいものだったので、領主の原田氏は、どこへ行くにも持ち歩くほど大切にしていたということです。 原田氏は、薬王寺を再興した日達を崇拝していましたので、日達が薬王寺に入ったときにこの像を寄進したということです。その後、この像は2回も盗難にあったので、寺では代わりの釈迦如来像を造って釈迦堂にまつり、砂金で造られた釈迦像は本堂にまつるようにしたのだそうです。

福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」

 「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていました。
 江戸時代の鞆の家並みは、平入りの2階建てが一般的で、屋根は寺院で用いられるような本瓦葺き、そして全体に骨太で重厚なつくりとなっていました。2階の高さは様々ですが、近隣の倉敷や竹原のように漆喰(しっくい)で塗り上げた仕上げはあまり見られず、窓には木格子を入れていました。1階の店舗は、出格子や蔀戸(しとみど)(跳ね上げ式の大戸)になっていました。澤村船具唐では、今日では珍しくなってしまった蔀戸の構えを見ることができます。

尾道 鉱毒事件の調査に来たのか?「志賀直哉旧居」

 志賀直哉は、足尾銅山鉱毒事件を批判する内村の演説を聞いて衝撃を受け、足尾銅山の公害事件に興味を持った。
 祖父・直道がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという理由から父・直温に反対されて激しく衝突した。父親と対立から1912年尾道転居した。
 「なぜ、志賀直哉は尾道に来たのか?」(推論)尾道は、別子銅山(四国)の公害事件(日本での最初の公害対策)が行われた場所であった。そのため鉱毒事件に関する対策を探りに尾道に来たのでしょうか?

座間 裏山から湧水 し、水量も豊富「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
 開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

鎌倉 源氏の旗、白旗に因(ちな)む「白旗神社」

 小田原を平定した秀吉は天正十八年七月十七日、奥州へおもむく途中、鶴岡八幡宮に参詣した。
 そして、白旗社の扉を開けさせ、源頼朝の木像にむかって話しかけたという。
「およそ微少の身で天下を取ったのは、わが国では御身(頼朝)と自分だけである。しかし御身は多田(源)満仲の後胤という名門の出で、しかも頼義・義家は東国に名を馳せ、為義・義朝も関東に威を張った。だから流人となっても、兵を挙げると関東のものがみな従ったので、天下を統一するのにたやすかった。自分はもともと氏も系図もない身であるのにこのように天下を取ったのだから、その功績は自分の方が勝っている。しかしながら御身と自分とは天下友達である」と、ひとりしゃべりおえると、頼朝の木像の背中をポンポンと叩いた、というエピソードがあります。

尾道 踊念仏を復興し、継承「正念寺」

 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
 時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。

厚木 2001年現本堂に落慶を迎えた「宝泉寺」

 宝泉寺は室町時代の後期、1486年に起立。 当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、 そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。
 現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
 その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。

鎌倉 常に粛然と静まっている「成就院」

 坂の頂部に近い左手の石段を上ると、古義真言宗の寺、普明山成就院がある。
 山ノ内の長寿寺、円応寺などと同様、昔の高い道のところに置き去りにされた格好であり、この寺の場合は主要観光ルートから外れているので、常に粛然と静まっている。
 縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。
 寺宝としては、星の井から出た明星石のほかに本尊不動尊明王、繊細なきり金文様をそなえる千手観音像。それから文覚上人荒行像と呼びならわされているユニークな小像を持っている。

尾道では坂に名前がないがその例外が「蓮花坂」

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。尾道は坂のまちとして知られていますが、坂道のほとんどにに名前がありません。ひとつだけ例外の坂道があります。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道です。

 尾道には、確かに坂道がたくさんあります。しかし、ほとんどの坂道の途中に石段があります。
 「坂」という文字は、その原点に「土のイメージ」があり、崖に手をかけてよじ登るという意味があります。坂道の途中に石段があると、坂道に「○○坂」と名前をつけるには抵抗があったのでしょうか。

福山 最古の長い歴史を持つ港町「鞆の港」

 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。
 鞆の浦の食堂に入ったとき、そこのご主人が「備後地方で採れる魚が一番うまいのですよ」とおっしゃっていました。

鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」

 白雲庵は円覚寺塔頭で、暦応3年(1340)に示寂(入寂)した円覚寺第10世東明慧日(とうみんえにち)禅師の塔所で、円覚寺の塔頭のひとつです。禅師は、北条貞時(時宗の子)が中国元から招いた高僧です。創建された、円覚寺の数ある塔頭の中でも、最も古い歴史を持っています。庵名の由来は、禅師が中国白雲山の住職だったこと、また「白雲抱幽石」という漢詩の一説に因んでいます。

尾道 歴史や文化の発信を願う「海の駅」

 ここは、ヨットやボートの停泊設備です。
 住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はが、ホテルや食堂、商店街がすぐそばなので、停泊施設以外は造らなかったのでしょう。

 「海の駅」は、瀬戸内海の豊かな自然環境と歴史や文化という貴重な地域の観光資源を多くの皆さんに発信することにより、瀬戸内海の島々への観光客を誘致し、賑わいをもたせて地域経済の活性化と産業振興を図り、人々に安らぎと癒しを与えることを目的に、平成12年3月に広島県豊町に設置された「ゆたかの海の駅」が発祥です。

座間 日蓮が石に文字を書くと泉が「圓教寺」

【円教寺に伝わる話】
 鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
 そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。