島に行く船が出ています。
前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。
「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。 前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。
1957年4月、瀬戸田港から尾道港に行く第五北川丸の海難事故がありました。岩礁に乗り上げ沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡。定員は旅客77人、乗っていた旅客は訳230人、約3倍の乗客を乗せていました。
その頃、夏の海水浴場へ行く客船は、船の周囲が通路になっており、海水が足首まで来るくらい乗客を乗せていました。
事故後、カウンターで乗客を数えるようになり、やっと定員を守るようになりました。
今、桟橋があるとこに、昔は魚市場があり、生きている魚が競りにかけられていました。朝7頃には取引は終わっていたのですが、小さなサメが転がっていたり、魚のにおいが残っていました。
戦国時代から江戸時代の初め、尾道は歴史の上で逼塞(ひっそく)していたのですが、時代が平穏になって西回り航路が開かれ、北前船が入ってくるようになると商業のまち尾道はまた活気を取り戻します。ただし、尾道の自前の船があちこちに出掛けたのではなく、
寄港する北前船を利用することで繁栄したようです。
北前船はいわば動く商社ですから、仕入れた品物をよその港で売る。その価値差で儲けていましたので、どこで売れば最も得かという情報に長けていました。
では、なぜ北前船の寄港に尾道が選ばれたかと
人の生まれ変わりも起こり、町割りをも変えてゆきます。産業では、造酢業が起こり、鍛冶作業は需要に応じて「錨」を鍛造し、特産品にまでなってゆきます。
いいますと、積んだ荷が売れると同時に、買い積みのできる港であったこと、尾道が瀬戸内の物産の集散基地であったからです。
尾道では、北海道の昆布や魚肥、北陸の米がおろされ、古着まで含めた綿製品や瀬戸内の塩などが積まれました。なかでも、綿製品は綿花のできない北の地で
は庶民の衣料として最も必要なものでしたから、多く積まれました。尾道の東、松永湾岸では、北前船の運んでくる魚肥をつかって綿花栽培の増産をはかる循環も生まれました。
尾道の町は、といいますと、それまでの商業形態や商圏を飛躍的に発展させることで、生産物を変え、商