八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。
建築年代ぽ残された棟札(むなふだ)から元禄3年(1690)とみられます。
朱塗りを基調として、彫刻や組物などは極彩色としています。
元禄3年(1690)の八幡宮再興棟札には大工として、三増村((愛川町三増)の高木半左衛門、宮本清兵衛の二人の名前が記されています。また「進神ノ大施主 川口長三郎」とあり。これは三田郷の領主です。
扉金具には「かさ里や 新戸村 久兵衛利重」の印刻銘があり、これよ荻野神社の扉金具銘の「新戸村 石川久兵衛 重利」と同一人物かもしれません。
平成8年4月に棟札等とともに厚木市指定文化財に指定されました。
また安永4年(1775)に本殿の彩色をした難波兵吉藤原美明は、厚木市下古沢本照寺ねはん図を画いた狩野洞春美住信門、難波洞雪藤原美明と同一人と思われます。
(「文化財散策ガイドあつぎ」 厚木市教育委員会発行 より)
安達 盛長(あだち もりなが)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近。
盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。
治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(1184年)の頃から上野国の奉行人となる。文治5年(1189年)、奥州合戦に従軍。陸奥国安達郡を領して本貫とし、安達氏を名乗る。
八幡神は、もとは九州の航海系民族の神さまで海神でした。「八幡」は船に立てるたくさんの旗を表わす言葉でしたが、その後、大分県の宇佐八幡宮を本宮として、八幡神(応神天皇の神霊とされる)を祭神とするようになったのです。
八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の
保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。その後、源氏の勢力拡大にともなって、八幡信仰も各地へと広がっていきました。
数がいちばん多いのは八幡系のおよそ七千八百。八幡様と呼ばれて親しまれている八幡神社の祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)である。神社によっては応神天皇の名で祀られている場合も多い。前者は生前の名前、後者の「応神」は死んだ後の諡号(しごう)(贈り名)であり、通称としては応神天皇のほうになじみがある。まあ、この辺のところをちょっと理解しておくと、八幡さまにお参りしたときに親しみやすいだろう。基本的な性格として悪霊(あくりょう)を防除する霊力を備える八幡様であるが、今日における一般的なご利益は、
成功勝利のほか国家鎮護、殖産興業、家運隆昌、教育、交通安全、諸願成就といったものである。さらに、八幡信仰の源流には古くからの母子神信仰があり、息子の応神天皇とともに母神の神功皇后を一緒に祀っている場合が多い。そこから縁結び、子宝、安産、子育て守護の神様としても信仰を集めている。