慈観寺(時宗)
尾道市長江一丁目  標高:9.6m
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 1348年に慈観上人が開いた時宗寺院。1622年に栗原(尾道西部)の世計橋付近より現在地に移ったとされている。本尊は、阿弥陀如来で、宗派は時宗一遍上人、本山は神奈川県藤沢遊行寺である。

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。

 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。

 (参考:天明を挟んだ江戸時代の人口は、1780年2601万人→1792年2489万人 △112万人もの人口が減少したとも。)
 この寺は、毎年櫻の季節の過ぎた後、前住職河野恵良老僧の丹精による牡丹が寺域一面に咲き乱れ“牡丹寺”とも称されていたのですが!
 薬医門











 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
 本堂

 大きな裳階(もこし)がついています。
 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。






 本堂内部
 正面左の部屋に豪商橋本家一族が祀られているお部屋があります。
平田玉蘊が画いた《桐鳳凰図》
 鳳凰(朱雀)は、四霊獣の1つ。別名朱雀は南の方位の守護神という意味。表現力を高め、芸術や芸能面の才能をアップさせるといわれる鳳凰。クリエイティブな仕事をしている人は、机に鳳凰の置物を飾ると斬新なアイデアを生み出すことができる、と。
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