平安時代の初期、真言宗の開祖の空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
坂の頂部にあり、昔の高い道のところに置き去りにされた格好。しかも高いところを桐くづした道路の対面にも墓地がある。
順徳天皇の1219年11月21日に開かれたが、その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。
寺宝としては、星の井から出た明星石のほかに本尊不動尊明王、繊細なきり金文様をそなえる千手観音像。それから文覚上人荒行像と呼びならわされているユニークな小像を持っている。
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尾道 行基菩薩創建と、真言宗醍醐派の大本山「西国寺」
厚木 起立時は萬木千草地に満ちていた「宝泉寺」
鎌倉 ぼたもち寺ともいわれる「法源寺」
尾道「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」
鎌倉 木造の古建築では鎌倉一の大堂「光明寺」
尾道 冬至の夕日が割れ目の向こうへ「岩屋巨石」
岩屋巨石ははるか昔に人が造形したと考えられている岩です。
この大きな岩の割れ目は、夏至の太陽が割れ目の東側から昇り、冬至の太陽が割れ目の西側へと沈むようにつくられています。それは古代からこの岩と山が人々に信仰されていた証ではないかと考えられています。
また冬至の夕日がこの割れ目の向こうへと沈んでいく姿は絶景であり、冬至の日の前後二週間は、ほぼ同じ位置に沈む光景を楽しむことができます。
人造の傷跡があることから、岩屋巨石のその造形は古代太陽信仰に基づいた太陽の周期とリンクしたものになっており、古代人の歴の知識が込められていると考えられます。
また、この岩屋山の山頂には尾道水道を見渡せる絶景のパノラマビューがあり、尾道三山の寺院(千光寺、西郷寺、浄土寺)と、この岩屋山との不思議な関係を眺望することができます。
鎌倉 廃寺禅興寺の名残りの塔頭「明月院」
尾道 生口島 仏教伝来当時を偲ばせる「耕三寺」二段目
厚木 もとは真言宗の乗碩寺だった「松石寺」
鎌倉 厳粛で静謐な雰囲気の「瑞泉寺」
尾道 昔はここに魚市場があった「尾道駅前桟橋」
・島に行く船が出ています。
・前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。
・「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。
・他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
今、桟橋があるとこに、昔は魚市場があり、生きている魚が競りにかけられていました。朝7頃には取引は終わっていたのですが、小さなサメが転がっていたり、魚のにおいが残っていました。
参考)この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。
鎌倉 頼朝の娘、悲運の大姫の守本尊を安置「岩舟地蔵」
源頼朝の娘、大姫(大姫とは長女の意味、本当の名前はよく分からない。)を供養する地蔵堂。大姫は頼朝と北条政子とのあいだにできた最初の子。二十歳くらいで(1197年)なくなったようです。
木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものだった。
翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、頼朝は悩んだ挙げ句、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれた。
福山 鞆 鞆の浦で2番目に古いお寺「医王寺」
厚木 元は愛甲神社三柱大明神と称された「林神社」
由緒(境内掲示板より)
当社は人皇十二代景行天皇二十五年七月竹内宿彌:東國勧察の時勧請したと伝えられている。延享年間記せしものに「北陸東方諸国の地形を定る時相模の國は東の堺たるに由りて東方守護のため東林山に此神を祭る。世に愛甲神社と号す云々」とあり。思うに当社は延喜式神名帳には載せられていないが、千有余年前勧請の古社である。
天正三年(一五七五)棟札を写したものに「日檀那相州森庄林之郷井上之苗裔○○○中之○在原業秀敬白大工下野○○○○○ 縫殿總宗作之寄進之天正三年○○○月吉日」とあり。この年を以て再建○したものと言われている。
元は愛甲神社三柱大明神と称され○○○○宮大神玉柱姫命も合祀せられ其の後林神社と称す。
鎌倉 比企能員の屋敷跡に「妙本寺」
この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。
お寺や神社の中には、霊を弔い、災いを防ぐという目的で建立されたものが多くあります。
医療が発達していない時代は、伝染病の原因が分からず、自分たちが手にかけた相手方の霊が仇を討つために、自分たちや、自分たちの子孫に、災いを及ぼしていると考えたのでしょう。敵方の霊を静かにさせておくため、莫大なお金を使い、お寺や神社を建立し、そこに敵方を祀り、災いが起きないよう祀ったのでしょう。