心光山 阿弥陀寺
福山市鞆町後地  標高:7.3m
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 永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 仏教の世界では、東の方には薬師さんの仏国土があり、西の方には阿弥陀さんの仏国土があるといいます。
 1748(延享5)年に、宇和島藩の接待によって朝鮮通信使の宿が「阿弥陀寺」に移ったとき、眺めが悪いためか通信使一行は抗議して船に帰ったといいます。
 通常、朝鮮通信使のための迎賓館として使用されていたのは、福禅寺の客殿で1711(正徳元)年、この客殿からの眺望を「日東第一形勝(対馬から江戸までの間で一番美しい景勝地という意味)」と称賛、従事官の李邦彦はその書を残しています。

 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
 彼らは、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。朝鮮通信使の一団は、日本ではめずらしい服装で朝鮮の音楽を奏でながらパレードした。当時の日本の庶民は、毎回わざわざ見物に集まり、江戸の町ではこの異国人の一団を描いた絵や書物が飛ぶように売れたという。
 鞆の浦の中でも随一とか
 「お釈迦になる」という言葉があります。なぜお釈迦になったらいけないのか。これは、仏師の人が阿弥陀さんや観音さんなど、他の仏さんの注文を受けてこしらえたはずなのに、お釈迦さんができてしまった。これでは商売にならない。だから「お釈迦になった」といわれるようになったとか。
 ここに「鞆の大仏」と言われている阿彌陀如来坐像が祀られています。




 木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏) 光背までの高さ約4m 。元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
 造像を発願した中興・雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったといいます。
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