勇徳稲荷神社
尾道市久保三丁目  標高:2.0m
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祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 須佐之男命(すさのおのみこと)

 もともとは海徳寺の鎮守であったが、1926年海徳寺が火災にあい、山手に引っ越した。そのため、神社は独立しました。

 現在でこそ、神道と仏教は明確に区別されていますが、明治時代までは、両者の境界線は非常にあいまいでした。
 仏教寺院を建てるさい、その土地で古来あがめられてきた神さまを、寺の守護神(鎮守)としてまつることが、ごくふつうに行なわれるようになり、神社とお寺が同じ敷地内に同居することも、あたりまえになったのです。
 こうした傾向を、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と呼びます。神社とお寺が分離されたのは、明治時代に「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」が出されてからなのです。
勇徳神社の由来(案内板より)

◎ 軒が低く打ち水が涼気を誘う後地小路をくぐりぬけるとまねくが如く道路にセリだした松の木の根元にギョッとするほど鮮やかな朱塗の鳥居が待ち受ける。もともと正一位 勇徳稲荷神社は海徳寺の鎮守であったが、大正十五年に同寺が火災にあい、このため寺は、東久保町の山手に引っ越したが、神社だけは独立し、そのころの名ごりをとどめ「抱二天」の仏様がまつられている。
 鎮座はこれまたいつのころかわからないが鏡台に文久二年(一八六二)と書きこんであるところからこれよりさかのばるものとみられ、間口三間ほどの拝殿はそう古くはないが玄関は昭和年代に入り、近くの御嶽教社をとりこわし移し、また鳥居も元市民病院横にあった稲荷様のものといわれる。
◎ 境内にはこのほか妙力稲荷が前に、うしろに福徳稲荷神社が構え背中あわせの地蔵堂は延命地蔵がまつられ、耳の病気にご利益があるとのことで、今でもときたま社前にぬかづくお年寄りの姿が見られる。昭和四十年初期当時八十を越した宮司の大平竹五郎氏は久保八幡神社にいたこともあり、裁判所を退職されたあと二十二~三年前から同社で神職につかれ、 氏子から「先生く」と敬慕され、寒施行のほか、旧暦四月卯の日の春の祭典は盛大に挙行され、毎年 土~日曜日にかけ行なわれ、当時の冷凍会社広場で奉納する神楽に氏子約二〇〇人をはじめ付近の人たちは楽しみにしていた。
 本神社は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)須佐之男命(すさのおのみこと)を奉斎してある、稲荷神社五穀の神宇賀魂(うかのみたま)の称京都市伏見区深草町の稲荷山に奉ってある。また九州の佐賀県にも佑徳稲荷あります。全国の三代勇徳稲荷と言われています。
          平成十六年三月 役員一同
 尾道の旧市街は稲作はほとんど行っていません。ただ、尾道の北にある「太田荘(おおたのしょう)」は、古くからの荘園で、おの米を尾道から船で出荷していました。高野山の荘園の時期が長かったので、お稲荷さん(尾道でも神様を“さん”付けします)を祀ったのでしょうか?
 鳥居の両側にキツネの狛犬があります。




 祭神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は、日本古来の食物神、仏教の福神の宇賀神(うがじん)のことで、お稲荷さん(稲荷神(いなりのかみ))と同神であるともいわれています。

 もう一人の祭神の須佐之男命(すさのうのみこと)は、八俣大蛇(やまたのおろち)を退治した神様で、退治される八俣大蛇は、頭が8つ、尾が8つあり、その長さは8つの谷8つの丘を渡るほど。 体からは杉や槍が生え、目は真っ赤という恐ろしい姿をした怪物です。
 『日本書紀』によると八俣大蛇の上にはつねに雲があったといいます。このことから八俣大蛇には雨を降らせる水の神という性格があるとされています。
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