瀬戸田港
尾道市瀬戸田町瀬戸田  標高:2.6m
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 瀬戸田港は、生口島の北西に位置している港です。生口島は、14世紀の半ば頃に小早川氏の支配下に組み込まれ、後に小早川家の庶子生口氏に譲り渡ししています。港に適した瀬戸田浦を利用して、小早川氏は海上勢力を成長させ、後に浦氏、小泉氏、生口氏とともに小早川水軍を形成しました。小早川氏の成長要因は生口島が海上交通において便利な場所にあったからだけではなく、生口氏がその実力を認められ、生口船として室町幕府から物資輸送のため自由な航行を認可されていたこともその一つです。生口船とは京都にいる小早川氏が必要とする物資を運んでいた船で、米や豆、小麦などとともに、最も多く運んだのが周辺で生産されていた「備後塩」でした。当時の塩は大変貴重なもので高値で取り引きされていました。また、物資輸送に関して瀬戸田商人と連携したことも発展の要因の一つです。生口氏にとっては商人と連携することで物資調達が可能となり、商人にとっても生口氏の特権を利用して商売がしやすくなるというわけです。
(「尾道の歴史と遺跡(近世編)」より 2013年3月発行:尾道教育委員会)
 1957年4月12日「第五北川丸沈没事故」がありました。午後0時30分に瀬戸田港から尾道港への帰途についた芸備商船の定期客船・第5北川丸が出航。この客船は、定員が84名であったにもかかわらず、235名(うち子供12名)が乗船。旅客定員の3倍超の乗客と乗員4名を乗せていました。しかも同船は建造から33年(1924年建造)経過した老朽木造船。乗員5名のうちひとりを別の用事のために下船させたため、船長自らが切符整理を行い、舵を当時16歳の甲板員見習に任せていました。生口島の瀬戸田港から尾道港に向け出航しておよそ10分後、佐木島西方にある寅丸礁(事故後、灯台が設置)と呼ばれている暗礁に座礁・転覆し、あっというまに沈没してしまいました。付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たったのですが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名、負傷者49名を出す惨事が起きました。操船を未熟かつ資格のない甲板員見習にまかせた船長の職務上の過失に加え、老朽木造船に安全性を省みずに多くの乗客を乗せるなど、運航会社による運航管理が不適当でした。

 この辺りは、潮流の変化が激しい上に、干潮と満潮の潮位の差が3mを超え、海底に隠れていた岩が船底に当たる危険が多い地域で、むかし村上水軍が水先案内を本業にしていた地域です。 船の定員オーバーは、当時としてはごく普通のことで、夏に島の海水浴場に行く旅客船に乗るときは、ゴム草履を履いて乗っていました。船の1階に乗せられ、足首まで海水が来るほど乗船させていました。船が不安定になるため、船の2階には乗船できませんでした。また、船底の客室は、怖くて入りませんでした。
 当時、親たちは、子どもを船に乗せるときは、子どもに、船に備えてある救命胴衣や浮き輪の場所を、確認させていました。事故が発生した後、やっとカウンターで乗船人数を確認するようになり、定員が守られるようになったのです。




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