鎌倉 八幡太郎義家が出陣時に白旗を立てた「源氏山公園」

 源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「源氏山」とか「旗立山」といわれるようになったといいます。
 白旗山または旗立山とよばれたこともあるようです。緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがあります。

「八幡太郎義家」
 九世紀なかばには、のちに東国平定などに武勲を示す源義家が石清水八幡宮で元服の儀式を行ない「八幡太郎」と称しました。
 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。

尾道 寄進された五百羅漢像「天寧寺」

 1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。

 本堂前の羅漢堂には、江戸中期から明治期にかけて檀信徒から寄進された五百羅漢像があり、本堂西側には古の山門の礎石という巨石を残している。

鎌倉 夢窓疎石の塔所、関東夢窓派の拠点「黄梅院」

 第十五世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。本尊:千手観音菩薩。
 円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。

 中国から日本へ渡来した無学祖元は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。
「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」と。
 現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めた。

厚木 念仏を唱えれば極楽浄土へ「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

 毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。

尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」

 ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。

鎌倉 もとは市役所の駐車場にあった「諏訪神社」

 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。

 諏訪神社は現在、商工会議所西側の御成トンネル右手前に移され、社殿も鳥居も再建されています。この神社は、誠訪盛澄(すわもりずみ)・盛重(もりしげ)の邸内の守護神としてまつられたものということです。
 現在諏訪神社がおかれている場所には、以前簡易裁判所がありましたが、現在は由比ガ浜に移されています。

福山 鞆 創建から五回も焼けた「静観寺」

 創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
 しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。

鎌倉 昔、極楽寺の境内でした「熊野神社」

 もとは新宮社と名乗っていました、1269年(文永六年)忍性が熊野本宮から勧請したと伝えられ、鎌倉時代、極楽寺全盛時より熊野新宮と名付け、極楽寺の鎮守社として広く神域を領して鎌倉幕府の崇敬を受けていました。
 祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、素斐鳴命(すさのうのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)です。
 極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の二社があったのですが、関東大震災で倒壊したため、昭和三年に当社に合祀されました。

尾道 瀬戸田 現代に生きる「耕三寺」

 このお寺さんは、見慣れたお寺さんとはかなり印象が違います。日本に仏教の布教を始めた当時の様子を、想像できると思います。仏教を普及するにあたっては、ディズニーランドのような手法が必要だったのでしょう。当時の庶民の住居は掘っ立て小屋のようなもので、今と比べれば、圧倒的に貧しい生活でした。そこに、このお寺さんのような夢の国をつくり、人々を引きつけ、仏教を普及拡大し、なおかつ、人々を精神面で救おうと考えれば、このような派手さは当然だったと思います。

福山 鞆 水軍の拠点だった大可島「圓福寺」

 当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
 戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。

鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」

 東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。

尾道 尾道西部の日比崎にある石仏の山「竜王山」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっています。
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場でした。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立しています。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めていました。

厚木 多くの石仏が隠れる「金剛寺」

 飯山金剛寺の大師堂に、神仏が八人の翁に化身して現れたという言い伝えがあります。
 最乗寺(南足柄市)の輪番にあたった三田村の清源院の四世忠州は、最乗寺へ向かう途中、この大師堂に立ち寄ってお経を上げていると、「ここで一夜を明かせ」という八人の翁の声がしました。翁達は、退廃しているお堂の再興を依頼して夜明けに帰っていきました。
 八人の翁は・観音様・黒地蔵・白地蔵・白山権現・不動尊・竜蔵権現・熊野権現・稲荷明神とわかり、大師堂は、金剛寺と忠州によって復興されました。
 この忠州が、曹洞宗金剛寺の開祖となります。

鎌倉 神仏分離で名を改めた「小動神社」

 1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就の後に黄金(こがね)作りの太刀と黄金を寄進したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
 その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
 1868年(明治元年)の神仏分離で小動神社と名を改めました。
 また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。

尾道 伽藍配置で最南端部に造営される「熊野神社」

 西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
 日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。
 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。

 古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。
 旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。
 からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。

鎌倉 捨身護法・法華色読の霊地「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。

 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。

 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。

福山 鞆 一直線に結ばれた寺町にある「慈徳院」

 慶長年間、芸備両国の大守の福島正則によって、鞆の浦の寺々はほぼ一直線に結ばれ、寺町が形成されました。その寺町筋に位置するお寺のひとつが、この慈徳院です。

 福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し―。現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。

尾道 江戸時代から続く花火大会「住吉神社」

 毎年旧暦の6月28日前後(2023年は7月29日19:30から)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

 尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」 「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。

江の島 たびたび裏山が崖崩れ「延命寺」

「此処は何なのかしら・・・・?」

 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。

 閻魔大王を筆頭とする十王の信仰は、鎌倉時代に流行した信仰で、死後に人は天国か地獄に行くと信じられていました。天国か地獄かの裁きを司るのが、十王で、裁きは七日ごとに七回行われるので、四十九日目には天国か地獄かが決定します。

鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」

 明月院のもともとは、北条時頼が建てた「最明寺」という自邸内の持仏堂がはじまりのようです。時頼の死後は荒廃し、子の時宗がそれを再興し、禅興寺としました。
 この禅興寺の盛時に塔頭として明月院が建立されました。
 本寺の禅興寺は江戸時代に衰退し、明治初年に廃寺とされ、明月院だけが残りました。

 明月院にアジサイが植えられるようになったのは戦後。それまではなんの変哲もないお寺でした。垣根代わりに住職がアジサイを植え始め、次々と株を増やしてあじさい寺と呼ばれるようになりました。質素なお寺だった明月院かアジサイのおかげで有名になりました。