西台山英月院 光照寺(時宗)
鎌倉市山ノ内827番地 標高 23.5m
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 1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。

 時宗の成功を賭け鎌倉入りを目指した一遍にとっては、その直前で、鎌倉入りを阻止され、この地で不安な一夜を過ごしたのでしょう。翌日江ノ島に行き、そこで踊念仏を行い大成功することができひと安心した。

 江戸時代には、隠れキリシタンに門戸を開いた。

 一遍さんも、「鎌倉で成功するかどうか」をかけて来たのにもかかわらず、門前払いで大変だったのでしょう。一遍さんと日蓮さんとは、一時は比叡山で一緒に修行した法兄弟で、熱烈に宗論をたたかわしたこともある仲だったので、鎌倉を目指したのでしょうか。
 光照寺の山門の梁に、十字架を模した30cmほどの紋がいまも残っている。もし、この十字架を模した紋が、隠れキリシタンの遺物だとしたら、そのキリシタンたちはこの鎌倉で、どんな生活をしていたのだろうか。想像するだけでも興味深い。
 光照寺は時宗の寺で、正式には西台山英月院光照寺である。十字架紋のある光照寺の山門は、箱根湯本の早雲寺の末寺だった東渓院山門だったが、同院の廃寺により、山門が光照寺に移されたという。
 東渓院は北鎌倉の北西の大地にあったというから、光照寺とはそれほど離れていないところにあったといえようか。
 臨済宗のお寺だった東渓院は、九州・大分竹田藩の藩主だった中川氏の娘の菩提所として建立されたもの。キリシタン大名のいた九州に領地を持っていた中川氏が、キリシタンと関係があっても不思議ではない。そう考えると十字架を秘した紋を山門に掲げたのもうなずける。
(「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著 発行:実業之日本社 より)
 子育て地蔵。山門の横にあります。
 山門。
 この寺は、1279~1280年(弘安2~3年)ごろに、一向(いっこう)が開いたと伝えています。一向は、時宗を開いた一遍(いっぺん)の弟子で、極楽に行くのには自分の力では難しく阿弥陀如来の力にすがるほかにないという教えを説きました。一説には、一遍が、1282年(弘安5年)に鎌倉に入ろうとして止め
られ、一夜を明かしたところにこの寺が造られたといわれています。

 石段を上ると、山門の右側に「子育て地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが立っています。このお地蔵さまに、子どものことについてお願いするとかなえてくれると




信仰されています。
 山門は明治のはじめごろ廃寺となった東渓院(とうけいいん)から移したもので、「くるす門」ともいわれ、キリスト教の十字の紋がある珍しい門です。江戸時代に鎌倉にもキリスト教の信者がいたのではないかと思われい本堂内にはキリシタンが使用したとみられる燭台(しょくだい)が2基あります。
 門の左側にある古い墓石に混じって「おしゃぶき」と呼ばれる小さな石造の祠が、つげの木の下に立っています。
 土地の人の話では、これに毎日お参りすると年寄りや子どもの悪い咳はすっかり治ってしまうと
 時宗藤沢清浄光寺末。西台山英月院光照寺と号す。開山一向、開基は不明。本尊阿弥陀如来、客仏としてもと東渓院の本尊と伝える釈迦如来坐像がある。山門も東渓院から移建されたという。境内に建武二年(1336)の年紀のある安山岩製の相模系板碑があり、鎌倉市の指定文化財となっている。山ノ内字宮下小路所在。(大三輪)

[文献]『市史』社寺編、『相模風土記』(「地誌大系」)
いうことです。

  鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
    遊行観音菩薩






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