一遍上人
延応元-正応二(1239-89)人九)時宗の開祖。伊予の人。はじめ比叡山で天台を学び、ついで大宰府の聖達について浄土門を修め、新しく時宗を唱え勧進帳と念仏札をもって全国を遊行した。踊念仏も名高い。その生涯は『一遍上人絵伝』に詳しく描かれている。遊行中の弘安五年(1283)鎌倉へ入ろうとしたところ、巨福呂坂で執権北条時宗の一行にゆきあい、伴の武士に杖で打たれて追いはらわれた。しかし、その夜、近くの山中での念仏には多くの人びとが集まった。
また、翌日片瀬の浜に移り、往生院ついで地蔵堂に滞在して布教につとめた折には、貴賤の道俗が群康三集したという。このあと、一遍は都へ足を向けている。狭義の鎌倉の中には入れなかったわけである。藤沢市遊行寺は正中二年(1325)、一遍の法をついだ呑海が開いた。(三山)
[文献]大橋俊雄『一遍-その行動と思想』(評論社)
プラスに考える知恵の言葉 …… 一遍
伊予国の豪族・河野通広の子。
河野氏といえば、瀬戸内海の水軍を率いた有力な武士である。しかし、承久の乱で京方について没落し、一遍が生まれたころは、かつての力を失っていた。
十三歳で九州におもむき大宰府の寺に入る。
岩窟に日を過ごすこと六カ月、おもむろに山を下りた一遍は、家を捨て、妻子を捨て遍歴の旅に出た。
そして、五十一歳で他界するまで、その旅をつづけることになった。
遍歴の旅に出た直後、おりしも蒙古の大軍が襲来し(1274年、文永の役、日本の運命を左右する嵐が吹き荒れようとしていた。
「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」の語は、出発のころ、一遍が詠んだものとされている。身を捨てる人は、ほんとうに捨てるのではない。かえって、身を捨てぬ人のほうが、なしくずしに人生を終わってしまうのだから、貴いいのちを塵芥のように捨ててしまうことになるのだ。
捨てる、とは「放下(ほうげ)」。こころの贅肉を取ること。
また、一遍は「心に妄念を起すべからず」[語録]といっている。
妄念が起こると月の光をさえぎってしまう。
煩悩が雲のように次から次へとわいてくる。やっと払い終わってほっとする。すると、すぐにまたわいてくる。また払ってほっとする。また、わいてくる。払っても払ってもわいてくるのが煩悩だ。
煩悩の雲を払うことは人生を生きるうえで大切なことだ。人格を磨き、煩悩にふりまわされない人生を生きていく。人生は妄念を払う修行の一生ではないのか。