勧行寺(日蓮宗)
鎌倉市腰越二丁目  標高:7.1m
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 日蓮は鎌時代前期の貞応1年(1222)に安房国に生まれ、12歳の時に天台宗清澄寺に入って16歳で出家した。その後に京に上り、比叡山延暦寺をはじめ京畿の天台宗の一者寺で修業した後に、故郷の清澄寺に戻ったのであった。
 しかし、日蓮は修行中に法華経に帰依するようになり、帰郷後はその信仰を強く主張し始めために、清澄寺の僧たちとの間に対立が生じ、それが次第に深刻なものになっていった。そのため翌年に寺を去り、法華経の信仰を広めるべく鎌倉に向かった。日蓮が32歳の時のことであった。
 鎌倉に入った日蓮は、はじめは庵を持たすに“辻説法”と呼ばれた独特の市教活動を行い、大衆に法華経を説いた。
 その頃の鎌倉は大地震や洪水などの天災が続き、また疫病流行するなど深刻な社会不安に陥っていた。日蓮はこのような社会の状態を仏教的に解釈し、法華経の功徳が人々を救うとして文応1年(1262)に「立正安国論」を著して、幕府の第5代執権の北条時頼に差し出したのであった。
 日蓮は、その中で国内に内乱と外寇が起こることを予言し、それらに対処するためには法華経に頼ることしかないことを説いたが、時頼は相手にせず無視した。
 また、日蓮は立正安国論の中で浄土宗を激しく非難したため、浄土教徒の攻撃をうけて草庵を焼かれたりした。
 さらに鎌中の浄土宗寺院が幕府に訴えて出たため、日蓮は捕えられ、一時は伊豆に流されたのであった。
 勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。

 1303年(嘉元元年)、但馬阿闍梨日実が創建。
 1683年(天和3年)、火災で伽藍を焼失する。その後復興する。
 1791年(寛政3年)、暴風雨で被害を受ける。その後復興する。
 1923年(大正12年)、関東大震災で被害を受ける。その後復興する。

 境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまっられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
文殊菩薩伝説

 1815年(文化12年)の秋、神戸(ごうど)川の上流の水中から、毎夜のように怪しい光が現れました。ちょうどそのころ、ここに女の人の溺死体(できしたい)があったので、その亡霊であろうという噂がたちました。勧行寺の住職であった日如(にちじょ)は、龍口寺(りゅうこうじ)輪番(りんばん)のときにそこを通ってこの噂を耳にしました。日如は亡霊を弔(とむら)って、恐ろしがっている里の人々を安心させてやろうと考え、橋の上に立って21日間お経をあげました。そのためかその怪しい光が
消えたので、人々はほっとしました。
 それからしばらくして、土橋八貫町の漁師で権左衛門(ごんざいもん)の子の文治(ぶんじ)という若者が釣りに出かけ、1体の仏像を釣りあげました。文治は、それを家に持ち帰って安置しておきました。ところがそれから家の人が毎夜のようにうなされるように、
なり恐ろしくなったので、家が勧行寺の檀家(だんか)であった関係から、その仏像をこの寺に移して供養しました。それがこの文殊菩薩だということですが、知恵を授かる仏像として信仰されています。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)




 文殊菩薩は、釈迦の悟り(知恵)を象徴する仏であることから、知恵をつかさどる菩薩すなわち知恵の神とされ、昔から「三人寄れば文殊の知恵」という諺もあります。
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