この神社は、1887年(明治20年)に、日野俊基(ひのとしもと)の霊をまつるため建てられました。
日野俊基は文書(もんじょ)博士で、出世したので、学問の神様としての信仰も集めています。
現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰されています。鳥居の左手に社務所と神輿庫(みこしこ)があります。
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鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」
鎌倉 福の神が住でいる「銭洗弁天宇賀福神社」
鎌倉 一時は約3,000坪の境内だった「薬王寺」
鎌倉 日蓮が佐渡へ流されるまで土牢に幽閉「光則寺」
鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」
鎌倉 退居寮として開創「白雲庵」
鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」
鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」
鎌倉 源氏が衰退の原因か?「永福寺跡」
頼朝の死後。二代目の将軍になったのは息子の頼家。 こんな豪華な建物を受け継いだ頼家なんですけど。家臣たち、御家人たちは、「次の将軍さまは何やってんの」というような、不信感を抱いてしまった。それは、頼家がここで何とをやったのか? なのですが、二代目将軍頼家の永福寺での行いに、家来たちは不信感を募らせたといいます。
どんなことをやったのかというと、京都から文化人を呼び寄せ、遊びの名人を呼び寄せ、頼家はここでどんちゃん騒ぎや蹴鞠をやったり、遊び場にしてしまったのだという。しかも京都から人を呼び寄せており、武士よりも朝廷の貴族たちを大切にしているとして、家来たちが不信感を抱いていった可能性があるのだ、と思われます。
鎌倉 薬師堂だけが残った「辻薬師堂」
鎌倉 果てしなく大きな智慧と福徳がある「虚空蔵堂」
鎌倉 頼朝が戦いで大勝したため改名「大巧寺」
鎌倉 法然上人が開祖か「鎌倉大仏高徳院」
開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。
当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。
1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。
かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。