尾道 天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」

 あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。(「郷土の石ぶみ」より)
 何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

鎌倉 腰越 (旧)八王子社(現:小動神社)の別当寺「浄泉寺」

 開山は空海と伝えられ、中興開山は、1558年(弘治4年)に没している元秀(げんしゅう)です。赤い山門を入ると、正面に本堂があります。本堂は公開されていませんが、本尊は左手に剣を持つ珍しい不動明王で、腕を前で交差させています(非公開)。
 昔、神仏を一緒にまつっていた時代には、今の小動神社は八王子社と呼ばれ、浄泉寺はその別当寺となっていました。そのため、1917年(大正6年)まで、浄泉寺の住職が小動神社も管理していました。神仏分離令以後もこのような形をとっていたのは珍しいことです。こうしたことから、1333年(元弘3年) に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めのときに八王子社に奉納した剣が、この寺に保存されていたことがあったといわれています。また文治年間(1185年ー1189年)に、佐々木盛綱(もりつな)が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。

尾道 昔は昼寝寺として有名だったのですが「浄泉寺」

 本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)  開基は、1525年に宗円が現在の木ノ庄町市原の地に一精舎を建立したのが始めで、その後1596年に現在地に道場を移した。
 大屋根には畳16畳という鬼瓦を東西に頂き、瀑布の流れ下るような瓦の波は近在随一の大伽藍である。
 本堂前の水盤「離垢」の名文は頼山陽の筆で、「浄泉即是萬劫不乾」などの句が読まれる。また、元禄時代の尾道の石工の名工の作、雨受盤をささえる「天邪鬼」は有名。
 昔は「昼寝寺」として有名だったのですが、いまは、たばこでの火災危険のため禁止になって随分たちました。