化粧坂
標高 出発:66.8m
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案内板によると

 化粧坂は、鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉住環上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たります。化粧坂から始まり、境川を北上して多摩丘陵から府中(武蔵国符)を経て、武蔵野大地を通過。さらに、比企丘陵から群馬県の高崎方面へと伸び、その先の信濃、越後方面へと通じていたのが「上道」といわれるルートです。この道を通って、新田義貞が進撃し、稲村ガ崎の関門を突破して、鎌倉幕府を滅亡へ追いやったのです。

 『吾妻鏡』建長3年(1251)12月3日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)があります。また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、化粧坂が交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地でもあったことが明らかになっています。
 化粧坂は七切通中でも古くからのもので、頼朝開府当時には亀ケ谷、名越坂とともに開通していたといわれる。
 その名の起りは木生之坂が誰ったという説、平家の大将の首を化粧して首実験したところ、あるいは遊女の住んでいたところと言われる。
 頼朝が天下の覇権を握ってからは、我国政治、経済、軍事の中心地となったのだから今日の蒼白い去勢された勤め人のべッドタウンとは相違して、鎌倉は血の気の多い将兵の蝟集する土地であった。
 武蔵大路と呼ばれた道などを通って、三々五々、彼等は化粧坂に立ち並ぶ娼家の紅燈をめざしてやって来て、“浩然の気(俗事にとらわれない,広く大きな気分)を養ったということは充分あり得る。
   (「鎌倉 趣味の史跡めぐり」 長峰五幸著より)
 鎌倉市扇ガ谷・山ノ内・梶原・佐助鎌倉から藤沢や武蔵方面へも通じる重要な切通道で、中世のやぐら群などがあり、1333年(元弘3年)の鎌倉攻めの際には鎌倉方の防御の拠点となりました。

 この仮粧坂は鎌倉七切通の一つで、今も昔の面影を残し、国の史跡になっています。
 この坂の名の起こりについては、平家の大将の首をここで化粧して首実検したことからその名が付いたとか、また、この坂のあたりに町家があって化粧した女達がいたからとか、木がよく生(お)い繋(しげ)っていたので
木生えとか、気勢(気生・形勢)と呼ばれたことからきているともいわれます。
 この険しい坂道は、藤沢から武蔵(むさし)方面に通ずる重要な道で、新田義貞(にったよしさだ)が1333年(元弘3年)5月、鎌倉攻めのとき、この仮粧坂に軍の主力を向けたので、激戦地になりました。
 鎌倉時代には、「気和飛(けわひ)坂」という名で商業地域の一つとされていました。

  鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より