鎌倉 蛇形ノ井の「蛇苫止堂」

 1422年(応永29年)のこと、佐竹(さたけ)氏と上杉(うえすぎ)氏の戦いがあり、負けた佐竹上総介入道常元(さたけかずさのすけにゅうどうつねもと)は山を登って、妙本寺祖師堂の中で自殺しました。あとを追ってきた上杉方は、祖師堂に火をつけました。そのときの住職日行(にちぎょう)は急いで堂の前の宝蔵から、これだけは焼かれないようにと、日蓮(にちれん)が書いた、本尊である仏の世界を表した曼荼羅(まんだら)を持ち出し、「蛇形ノ井」の中に隠しました。するとにわかに空に黒雲が起こり、その中に蛇の姿が見え、突然、すさまじい音とともに雨が降り注いで火を消してしまったということです。

鎌倉 一幡の母が井戸に身投げ「蛇苫止堂」

 若狭局を祀る社

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
 蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。

鎌倉 若狭の局の霊をまつる「蛇苫止堂」

 蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)
 比企ヶ谷(ひきがやつ)で能員(よしかず)が滅ぼされたとき、能員の娘で、若狭(わかさ)の局(つぼね)と呼ばれた一幡の母が家宝を抱いて井戸に身を投げ、蛇(へび)に化けて今も家宝を守っていると、言い伝えられています。
 その後、執権北条政村(まさむら)の娘が、もだえ苦しむ不思議な病気にかかりました。うわごとをロぱしり、蛇のようにのたうちまわるのです。そのうわごとから、若狭の局の亡霊が、北条一族にとりついて、うらみを晴らそうとたたりをしていることがわかりました。政村はえらい僧に祈祷をたのみ、若狭の局の霊をまつる祠(ほこら)を建てて供養したところ、娘の病気が治ったということす。その祠が蛇苦止堂だと伝えられています。