鎌倉 忍性が熊野本宮からお迎えした「熊野神社」

 正面にみかげ石の鳥居があります。石段を上がると美しい緑色の銅葺き屋根の社殿が建っています。かたわらに、神輿(みこし)を納めてある神輿庫(みこしこ)もあります。境内の囲いもなく開放的な割には荒れた感じのないこの神社は、いかにも地域の人々によって守られているという雰囲気をもっています。

鎌倉 念仏僧の代表者の一人「良忠上人御廟」

 念仏僧の代表者の一人、然阿良忠。石見国三隅荘(島根県)に生まれた人。深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。法然からかぞえて三代目の人。62歳の頃に鎌倉に入り、布教と弟子の育成に取り組み、鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。78歳の時、在京の門下の招請により、京に上がり布教、著述に励んだ。その後、88歳の時鎌倉に帰ったが、翌年89歳の高齢で入寂した。

鎌倉 竜巻や火災にあったりした「補陀洛寺」

 文覚上人(は頼朝の挙兵をうながした人)の開山、源頼朝の開基。1181年に源頼朝の祈願所として創建。七堂伽を完備した大寺院だったが、火災や竜巻で多くの伽藍を失なった。当時は境内も1km四方あった。
 本尊の十一面観音菩薩像や薬師如来像(行基の作)、日光・月光菩薩(運慶作)、地蔵像(空海作)などが安置されている。

 源頼朝の供養をする位牌所。

 「補陀洛」サンスクリット語で「ポータラカ」(観音菩薩が住むという南海上にある山のことで、観音浄土を意味する)。日本語に翻訳するとき「補陀洛」の字をあてた。
 はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めるが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになっていったという。

鎌倉 洪鐘(おおがね)と呼ぶ「円覚寺 鐘楼弁天堂」

 急な石段を上ると、正面に弁天堂があります。その左側には、「正安三年」(1301年)の年号が記された梵鐘(国宝)があります。この梵鐘は、北条貞時が物部国光(もののべくにみつ)に造らせた鎌倉時代の代表的な名鐘の一つで、高さは2.59mもあり、関東地方最大の鐘です。また、鐘楼の鰐口(わにぐち)には「天文九年」(1540年)の年号が記されています。弁天堂は、麓鐘が江の島弁財天の教えによって鋳造に成功したという伝説により建てられています。

鎌倉 恵比寿と同一視される「蛭子神社」

 昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまつられていました。
 本版は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。
 夷堂は、今は再び本覚寺に移されています。

鎌倉 地震や津波で海辺から移された「円応寺」

 山号を新居山(しんきょさん)といい、十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれていますが、もとは新井(あらい)(荒井)の闇魔堂(えんまどう)というお堂だったといわれています。新居の閣魔堂は、知覚禅師(ちかくぜんじ)が1250(建長2年)に建てた寺で、はじめは甘縄神明(あまなわしんめい)神社の近くの「由井郷見越岩(ゆいごうみこしいわ)」にありましたが、足利尊氏によって海辺に移されました。

鎌倉 腰越 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝える「英勝寺」

 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。

(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)

鎌倉 素朴な一木造の薬師如来像「辻薬師堂」

 薬師堂には、素朴な一木造で、平安後期のものといわれる本尊の薬師如来像(やくしにょらいぞう)と、江戸時代のものである脇侍の日光(日光)・月光(がっこう)菩薩像(ぼさつぞう)や、鎌倉時代の八体と江戸時代の4体の十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)が安置されていました。現在は鎌倉国宝館す。堂内には同じ形の仏像の一部が安置されています。
 薬師如来は薬壷を持って人々の病気を治すなど願いごとをかなえ、日光・月光菩薩は薬師如来のカが昼夜を問わず発揮できるようにするといわれます。

鎌倉 江ノ島電鉄設置で移した「諏訪神社」

 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」

 日蓮が鎌倉に来て初めて道場とした岩穴を御法窟といい、『立正安国論』もここで書いたといいます。昔は「日蓮窟」と呼んでいました。
 この法窟がこの寺の造られるもとになったので、開山は日蓮になっています。また寺の名は『立正安国論』を書いたことからきています。

鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」

 浄智寺は山号を金宝(峰)山(きんぽうざん)といい、臨済宗の寺で、北条時頼の三男宗政とその子の師時(もろとき)の二人が開基となり、1281年(弘安4年)ころに建てられたようです。また、開山は、宋の僧である元庵普寧(ごったんふねい)と大休正念(だいきゅうしょうねん)、準開山は、南州宏海(なんしゅうこうかい)(真応禅師(しんおうぜんじ)となっています。宗政が若くして亡くなったため宗政夫人が夫の宗政と子の師時の二人を開基とし、また、開山に招かれた宏海が、自分はまだ若いのでその師の正念をたて、正念はその師の普寧を開山にたてたため、このように複雑な形になったようです。

鎌倉 銭を洗うと百倍、千倍になるという「銭洗弁天」

 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。

鎌倉 芝増上寺から移設も「建長寺 仏殿、法堂」

 仏殿は、芝増上寺にあった崇源院(徳川秀忠の夫人、浅井長政の娘、お江)の霊屋を1646年に譲り受けたもの。
 現在の仏殿(国重文)は、1628年(寛永5年)に芝増上寺建てた、江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠の夫人だった崇源院(すうげんいん)の御霊屋(みたまや)の拝殿を、1647年(正保4年)に移転したもので、天井や壁に華麗な装飾がみられます。

鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」

 勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまつられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。

鎌倉 日蓮宗最古の三寺院の内の一つ「妙本寺」

 身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院。創建は1260年。
 この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。
 二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。

鎌倉 白い猿が日蓮を救った草庵跡に「長勝寺」

 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。

鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」

 円覚寺仏殿は、1923年(大正12年)関東大震災で壊れた後、1964年(昭和39年)に再建されました。鉄筋コンクリート造ですが、戦国時代の1573年(元亀4年)の仏殿の図面をもとにして建てられたので、昔の様子を残しています。正面の軒下には、後光厳天皇の筆跡にもとづく「大光明宝殿(だいこうみょうでん)」の額が掲げられています。本尊の宝冠釈迦如来像は、頭部は鎌倉時代の作で、体部は江戸時代の作といわれています。両脇に安置されている梵天と帝釈天は、1692年(元禄5年)に再興されたものです。また、天井には前田青邨の指導で守屋多々志が描いた「白竜の図」があります。

鎌倉  若狭局を祀る社「蛇苫止堂」

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
 蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。

鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。