鎌倉 日蓮宗最古の三寺院の内の一つ「妙本寺」

 身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院。創建は1260年。
 この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。
 二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。

鎌倉 白い猿が日蓮を救った草庵跡に「長勝寺」

 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。

鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」

 円覚寺仏殿は、1923年(大正12年)関東大震災で壊れた後、1964年(昭和39年)に再建されました。鉄筋コンクリート造ですが、戦国時代の1573年(元亀4年)の仏殿の図面をもとにして建てられたので、昔の様子を残しています。正面の軒下には、後光厳天皇の筆跡にもとづく「大光明宝殿(だいこうみょうでん)」の額が掲げられています。本尊の宝冠釈迦如来像は、頭部は鎌倉時代の作で、体部は江戸時代の作といわれています。両脇に安置されている梵天と帝釈天は、1692年(元禄5年)に再興されたものです。また、天井には前田青邨の指導で守屋多々志が描いた「白竜の図」があります。

鎌倉  若狭局を祀る社「蛇苫止堂」

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
 蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。

鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

鎌倉 平家一族の冥福を祈るために「教恩寺」



 山門の十六羅漢の彫刻。
 お釈迦様は、入滅の際に仏法を護って伝えていくよう十六人の弟子に遺言しました。
 北条氏康が開基、知阿上人を開山とする時宗の寺。
 もとは光明寺の境内にあった寺で、この地にあった光明寺の末寺、善昌寺が廃寺になったので、1678年に貴誉上人が移建したといわれている。
 本尊の阿弥陀如来像は運慶作で、一ノ谷の合戦に敗れた平重衡(東大寺を焼き討ちをした人、鎌倉で1年あまりを過ごしたが、身柄を東大寺の使者に引き渡され、ほどなく斬首されました。享年29歳)が囚われの身となって鎌倉に連れてこられたとき、源頼朝が、平家一族の冥福を祈るために籠堂を建立し、阿弥陀三尊を奉安したもの。

鎌倉 日蓮の弟子の四条金吾頼基の屋敷に「収玄寺」

 むかし、日蓮の弟子の四条金吾頼基(よりもと)の屋敷があったところです。1271年(文永8年) 9月、日蓮のいた庵に北条時宗の使者が大勢きて、日蓮を由比ケ浜に引きたてていきました。このことを知らせる使いが頼基の所に走り込んでくると、頼基兄弟はすぐさまはだしで由比ケ浜にかけつけました。
 「日蓮上人を殺すならば、自分を身代わりに段してください。」
と申し出たのですが、そのため役人ににらまれてしばらく土牢(つちろう)に入れられたり、主人の江馬光時(えまみつとき)から領地を没収(ぼっしゅう)されたりしましたが、信仰をまげなかったということです。

鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」

 坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)です。延暦20年(801年)坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
 その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。
 日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍したころ、富士山が大噴火した最初の記録が残っています。富士山の噴火記録は、奈良時代の末期からあるのですが、大噴火の記録としてはこの延暦の噴火(西暦800~802年)からです。

鎌倉 夢窓疎石の塔所、関東夢窓派の拠点「黄梅院」

 円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。山号は伝衣山(でんねさん)。本尊は千手観音像。五山文学で有名な造庭で有名な夢窓疎石の塔所です。疎石は建治元年(1275)生まれ、京都南禅寺に入寺した後、鎌倉瑞泉寺を開き、元徳元年(1329)に円覚寺五十三世として入寺。後醍醐天皇や足利尊氏の帰依を受けました。観応二年(1351)に死去、臨川寺に葬られましたが、後の文和三年(1354)に弟子の方外宏遠によって円覚寺内にも塔所が造られました。生前、黄梅院は夢窓派の活動拠点となり、また応安元年(1368)に足利尊氏の子、二代将軍足利義詮の遺骨を分骨したことで、さらに発展しました。しかし、足利氏の外護を受けていた時代が終わると、衰微していきました。

鎌倉 後醍醐天皇を助けた「日野俊基朝臣の墓」

 日野俊基は、下流の儒家の出でしたが、後醍醐天皇の信任を得て蔵人となりました。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わました。諸国を巡り反幕府勢力を募ったが六波羅探題に察知され、正中元年(1324年)の正中の変で、同族の日野資朝らと逮捕されましたが処罰は逃れました。京都へ戻ったのですが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した二度めの討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡で処刑されました。

鎌倉 北条一族の霊を弔う「宝戒寺」

 

 このあたりは、鎌倉時代の執権であった、北条一族の中でも「得宗家(とくそうけ)」と呼ばれる北条氏本家の屋敷があったところといわれくいます。
 1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏は滅んでしまいました。その後、1335年(建武2年)に北条高時をはじめとする北条一門の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの地に寺を建て、宝戒寺名付けました。

鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」

 昔は梅嶺山夜光寺とい真言宗の寺でしが、1293年(永仁元年)日朗の高弟だった日像が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺とか梅嶺寺とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長が1633年(寛永10年)高崎で自刃しましたので、妻の松孝院殿(織田信長の次男信雄の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。こうしたこともあって、一時は3,000坪ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。

鎌倉 北条時宗公産湯の井「甘縄神明宮」

 「足達盛長邸址」の石碑のそばにある石の鳥居は特色ある神明鳥居です。石段の下に小さな井戸があり、「北条時宗公産湯(うぶゆ)の井」という札が立っています。時宗は松下禅尼の孫で、足達氏の邸で生まれています。
 江戸時代には甘縄院というお寺がそばにありましたが、明治になるとなくなりました。9月14日は例祭で、神輿や山車が出てあたりは賑わいます。
 急な石段を上ると甘縄神明神社の拝殿と、その奥に本殿があります。

鎌倉 空海が修行した霊跡「成就院」

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 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。
 本尊は縁結び不動明王として信仰されていますが、最近は恋愛成就の寺院として、また、学業成就、安産、身代わりのお守りが用意されている。

鎌倉 吾妻鏡にも載っている「岩窟不動尊(窟不動)」

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 不動明王像は、仏像の中にはたいへん恐ろしい顔をしています。右手に剣を持ち、左手に羂索(けんさく)(縄)を持っています。その剣で煩悩(ぼんのう)を断ち切り、羂索で煩悩を縛り、人々を救う、ということです。
 不動明王は19の特徴を備えているとされていますが、その顔は他の仏像の顔と違って、左右が対称なっていません。右目は全開しているのに、左目は細く閉じています(ただし両眼を全開したものもあります)、右目では天を見、左目では地を見ているとされています。

鎌倉 桓武平氏の先祖を祀っている「八坂神社」

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 八坂大神ともいう。祭神は須佐の素戔嗚尊(すさのおのみこと)、桓武天皇、葛原親王、高望王。つまり、桓武平氏の先祖を祀っています。(北条政子は平政子と称し、平家の一族です。)
 素戔嗚尊(すさのおのみこと)は「古事記」では、伊邪那岐(いざなぎ)命のみの子とされていますが、「日本書紀」では、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の間に生まれたとされています。
天照大神の弟。その凶暴さによって地上また高天原を追放され、根の堅州国、或いは根の国の主神となり、その途次、出雲国にて、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治、稲田姫と結婚して宮(神のいる御殿)を営みました。
また子とともに新羅に渡り、日本に植林法を伝えたという別伝もあります(「日本書紀」一書)。暴風神・農業神・英雄神など多面的な神とされています。

鎌倉 鎌倉時代に広る熊野信仰「熊野神社」

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 創建年代は不詳ですが、応永年間(1395~1427年)及び永正年間(1504~1520)に社殿を再建したと伝えられ、隣接する浄妙寺が1188年密教寺院として創建していることから、1188年頃には創建されたものと推定できる。
 祭神は天宇頭女神(あめのうづめのかみ)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)です。

鎌倉 古色蒼然たる気配の寺「杉本寺」

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 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。
 光明皇后は夢の中で「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前と行基に命じて、財宝を寄付して734年の春、この寺を開いたと伝えられています。

鎌倉 かくれ里の雰囲気が漂う「佐助稲荷神社」

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 佐助稲荷神社の下社と社務所があります。
さらに行くと、奉納された鳥居やのぼりが立ち並ぶ参道の両側にたくさんの狐の置物がありその突き当たりに急な石段があります。その石段を上ると杉木立の中に拝殿が建っています。その裏手の石段を上がると本殿があります。
 境内は巨木が空をおおい、昼なお暗く静まりかえり、人里離れたかくれ里のふんいきがただよっています。

鎌倉 源頼朝夫人平政子の墓がある「寿福寺」

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 1200年 源頼朝夫人政子(平政子)が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
 源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
 明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。
 開山(初代住職)の栄西は、二度の入唐(28歳と47歳)をへて、日本に臨済宗を伝えましたが、比叡山延暦寺の官層(公務員の僧)たちの反感をかい、活躍の場を鎌倉に求め、寿福寺建立の許可を得ました。その後、鎌倉幕府の後援を受けて建仁寺(京都市)を建立しました。当時は、鎌倉で勢力を得て、京都へUターンする事例も多かったのです。