薬師堂には、素朴な一木造で、平安後期のものといわれる本尊の薬師如来像(やくしにょらいぞう)と、江戸時代のものである脇侍の日光(日光)・月光(がっこう)菩薩像(ぼさつぞう)や、鎌倉時代の八体と江戸時代の4体の十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)が安置されていました。現在は鎌倉国宝館す。堂内には同じ形の仏像の一部が安置されています。
薬師如来は薬壷を持って人々の病気を治すなど願いごとをかなえ、日光・月光菩薩は薬師如来のカが昼夜を問わず発揮できるようにするといわれます。
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鎌倉 江ノ島電鉄設置で移した「諏訪神社」
鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」
鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」
鎌倉 銭を洗うと百倍、千倍になるという「銭洗弁天」
鎌倉 芝増上寺から移設も「建長寺 仏殿、法堂」
鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」
鎌倉 日蓮宗最古の三寺院の内の一つ「妙本寺」
鎌倉 白い猿が日蓮を救った草庵跡に「長勝寺」
鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」
鎌倉 若狭局を祀る社「蛇苫止堂」
源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。
鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」
鎌倉 平家一族の冥福を祈るために「教恩寺」
鎌倉 日蓮の弟子の四条金吾頼基の屋敷に「収玄寺」
鎌倉 初の征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの「巽神社」
坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)です。延暦20年(801年)坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。
日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍したころ、富士山が大噴火した最初の記録が残っています。富士山の噴火記録は、奈良時代の末期からあるのですが、大噴火の記録としてはこの延暦の噴火(西暦800~802年)からです。
鎌倉 夢窓疎石の塔所、関東夢窓派の拠点「黄梅院」
円覚寺がある谷の一番奥に黄梅院があります。山号は伝衣山(でんねさん)。本尊は千手観音像。五山文学で有名な造庭で有名な夢窓疎石の塔所です。疎石は建治元年(1275)生まれ、京都南禅寺に入寺した後、鎌倉瑞泉寺を開き、元徳元年(1329)に円覚寺五十三世として入寺。後醍醐天皇や足利尊氏の帰依を受けました。観応二年(1351)に死去、臨川寺に葬られましたが、後の文和三年(1354)に弟子の方外宏遠によって円覚寺内にも塔所が造られました。生前、黄梅院は夢窓派の活動拠点となり、また応安元年(1368)に足利尊氏の子、二代将軍足利義詮の遺骨を分骨したことで、さらに発展しました。しかし、足利氏の外護を受けていた時代が終わると、衰微していきました。