尾道「完璧は災いの元」と石工の祈り「御袖天満宮」

 長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。
 上から二段目の1段のみわざと継いでいます。「完璧は災いの元」と思った石工の心遣いでしょうか。それとも、「完璧なものは神様しか造れない」ということでしょうか。
 ここにも、日本の伝統「未完成の美学」があるのですね。
 ロシアのプーチン大統領にも、「完璧に勝つことは災いの元」という風土の中で育ってほしかったですね!

鎌倉 木造の古建築では鎌倉一の大堂「光明寺」

 広々とした境内の正面には、大殿(本堂)が建っています。1698年(元禄十一年)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏が祀られています。大殿右壇には、善導大師等身大立像と弁財天像が、左壇上には、如意輪観音像と宗祖法然像が安置されています。
 境内左側には、開山堂、書院、庫裡(本坊)などが建ち、また、千手院、右には、蓮乗院、繁栄稲荷大明神、鐘楼堂、延命地蔵尊などがあります。

尾道 冬至の夕日が割れ目の向こうへ「岩屋巨石」

 岩屋巨石ははるか昔に人が造形したと考えられている岩です。
 この大きな岩の割れ目は、夏至の太陽が割れ目の東側から昇り、冬至の太陽が割れ目の西側へと沈むようにつくられています。それは古代からこの岩と山が人々に信仰されていた証ではないかと考えられています。
 また冬至の夕日がこの割れ目の向こうへと沈んでいく姿は絶景であり、冬至の日の前後二週間は、ほぼ同じ位置に沈む光景を楽しむことができます。
 人造の傷跡があることから、岩屋巨石のその造形は古代太陽信仰に基づいた太陽の周期とリンクしたものになっており、古代人の歴の知識が込められていると考えられます。
 また、この岩屋山の山頂には尾道水道を見渡せる絶景のパノラマビューがあり、尾道三山の寺院(千光寺、西郷寺、浄土寺)と、この岩屋山との不思議な関係を眺望することができます。

鎌倉 廃寺禅興寺の名残りの塔頭「明月院」

 明月院の由緒
 当寺は北条時頼公の墓といわれる宝笹印塔があることでもわかるように、北条氏執権第五代の最明寺入道時頼の仏道修行の小堂がはじめでした。名君時頼を記念して時宗は禅興寺を建て、後に廃寺となったが、その名残りのたった一つの塔頭が明月院なのです。
 さすが由緒ある古い寺、上杉重房木像、北条時頼塑像という名彫刻を持ち、古都鎌倉の伝統を脈々と伝えているのです。

尾道 生口島 仏教伝来当時を偲ばせる「耕三寺」二段目

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。
 一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。

厚木 もとは真言宗の乗碩寺だった「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石(経文を記した小石。死者の追善,現世利益・未来往生を願うためのもので,多くは地中に埋める。一字一石と多字一石とがある。)をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。
 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならへて」-(家康)

鎌倉 厳粛で静謐な雰囲気の「瑞泉寺」

 北条高時らの帰依を受けた夢窓疎石(むそうそせき)によって開かれ、鎌倉公方の菩提寺ともなりました。発掘調査により復元された初期禅宗庭園は、日本庭園の源流の一つで、国名勝です。
 瑞泉寺は、臨済宗円覚寺派に属していて、禅寺としての厳粛で静謐な雰囲気を境内に漂わせています。
 現在残っているのは、本尊の釈迦如来像が納められている本堂、庫裡、南北朝時代の彫刻で知られる夢窓疎石像の収蔵されている開山堂。そして、どこも地蔵の収蔵されている地蔵堂、復元された本土裏の庭園などからなり、往時の名刹の様子を今日に伝えています。

尾道 昔はここに魚市場があった「尾道駅前桟橋」

・島に行く船が出ています。
・前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。
・「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。
・他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
 今、桟橋があるとこに、昔は魚市場があり、生きている魚が競りにかけられていました。朝7頃には取引は終わっていたのですが、小さなサメが転がっていたり、魚のにおいが残っていました。
参考)この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。

鎌倉 頼朝の娘、悲運の大姫の守本尊を安置「岩舟地蔵」

 源頼朝の娘、大姫(大姫とは長女の意味、本当の名前はよく分からない。)を供養する地蔵堂。大姫は頼朝と北条政子とのあいだにできた最初の子。二十歳くらいで(1197年)なくなったようです。
 木曽義仲は頼朝の求めに応じて嫡子義高を人質として鎌倉へ送り、頼朝と和睦した。その時の条件として、表向きは、義高は頼朝の長女大姫(当時5、6歳)の婿として迎えられた。幼いながらも政略で夫婦とされた義高と大姫は仲睦まじいものだった。
 翌年の正月、木曽義仲が源義経・範頼率いる関東勢に破れ近江国粟津で敗死すると、頼朝は悩んだ挙げ句、義高の復讐を恐れ、義高を殺すことを計画したが、4月、頼朝の計画を知った大姫は、義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がしたが、すぐに発覚、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を追った堀親家の郎党藤内光澄に討たれた。

福山 鞆 鞆の浦で2番目に古いお寺「医王寺」

 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
 医王寺のご本尊は「木造薬師如来立像」。6年に一度ご開帳されます。広島県の重要文化財にも指定されています。
 坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。

厚木 元は愛甲神社三柱大明神と称された「林神社」

  由緒(境内掲示板より)
 当社は人皇十二代景行天皇二十五年七月竹内宿彌:東國勧察の時勧請したと伝えられている。延享年間記せしものに「北陸東方諸国の地形を定る時相模の國は東の堺たるに由りて東方守護のため東林山に此神を祭る。世に愛甲神社と号す云々」とあり。思うに当社は延喜式神名帳には載せられていないが、千有余年前勧請の古社である。
 天正三年(一五七五)棟札を写したものに「日檀那相州森庄林之郷井上之苗裔○○○中之○在原業秀敬白大工下野○○○○○   縫殿總宗作之寄進之天正三年○○○月吉日」とあり。この年を以て再建○したものと言われている。
 元は愛甲神社三柱大明神と称され○○○○宮大神玉柱姫命も合祀せられ其の後林神社と称す。

鎌倉 比企能員の屋敷跡に「妙本寺」

 この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。
 お寺や神社の中には、霊を弔い、災いを防ぐという目的で建立されたものが多くあります。
 医療が発達していない時代は、伝染病の原因が分からず、自分たちが手にかけた相手方の霊が仇を討つために、自分たちや、自分たちの子孫に、災いを及ぼしていると考えたのでしょう。敵方の霊を静かにさせておくため、莫大なお金を使い、お寺や神社を建立し、そこに敵方を祀り、災いが起きないよう祀ったのでしょう。

尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」

 開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。
 本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。

鎌倉 義経が頼朝に心情を訴える書状を書いた「満福寺」

 開山は行基(668~749)と伝えられ、本尊は薬師如来です。源義経(1159~1189)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。(案内板より)
 鎌倉時代の『玉葉(ぎょくよう)和歌集』に行基の歌だという「山鳥の ほろほろと鳴く 声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ」は、その生命観を詠んだ和歌として広く知られています。
 山の森の奥から声が聞こえてくる鳥は、亡き父だろうか、母だろうか、と感じられるのである、と。

座間 家康と関係の深い寺「宗仲寺」

 宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
 家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。

尾道 石造の神亀が手水舎に「艮神社」

 石造の神亀(しんき)

 少し変わった手水鉢を見ることができます。ー般的な手水鉢は、龍の口から水を吐くものが多いのですが、ここでは長寿にあやかり、亀のロから水が出ています。
 神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
 『古事記』は、九州の神武天皇が[ヤマト建国]を目論み瀬戸内海を東に進んでいたとき、海の彼方から、釣り竿を抱え、亀に乗った男がやってきて、水先案内人を買ってでた、と記しています。

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人像と釈迦如来像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺、勧行寺、本成寺、本龍寺があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。

鎌倉 人に慣れた狸が住みついたとか「延命寺」

 鎌倉時代の執権北条時頼(ほうじょうときより)の夫人が建てたと伝えられています。開山は専蓮社昌誉能公(せんれんしゃしょうよのうこう)で、浄土宗の高僧の一人です。公開されていませんが、阿弥陀如来(あみだにょらい)で、本堂の正面にまつられ、右側に観音像(かんのんぞう)や阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)、左側に地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されています。こここにまつられている地蔵像は「身代(みがわ)り地蔵」といい、時頼夫人が日頃信仰していたと伝えられる仏様です。

尾道 力石をかついだ和七の像「御袖天満宮」

 映画ファンなら必ず訪れるのが御袖天満宮(みそでてんまんぐう)。大林映画「転校生」の舞台となった石段があるからじゃ。
 上から転げ落ちて、男女が入れ替わってしもうた、あの石段じゃ。
 石段は五十五段あるんじゃが、あれほど立派な石段はなかなかお目にかかれん。
 すべて花崗岩(かこうがん)で造られとるんじゃが、一段の長さは5mほどあってな、すべて一本石でひとつも継ぎ目がないんじゃ。
 あまりよう出来過ぎたので上から二段目だけは継いであるがの。
 その石段から下ったわきに、力石をかついだ和七(わひち)の像が立っとる。
 力石とはな、力自慢たちが力を競うために作られたもんで、持ち上げた人の名前が彫り込まれとるんじゃ。
 尾道には、力石(ちからいし)がぎょうさんある。

厚木 頼朝と深い関係の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
 伊東氏は、藤原氏南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族で、古く平安時代の末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡の伊東荘(現在の伊東市)の地を本拠としていた豪族であった。
 平清盛が政権を握っていた頃の伊東氏の当主は伊東祐親で、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男・頼朝が伊豆蛭ガ小島に流されていたのを監視する役目も負っていた。
 この祐親が上洛して大番役に就いていた間に、頼朝と祐親の三女・八重姫が通じて千鶴という男の子を生むという事件が起きた。京から伊豆に戻った祐親は清盛の怒りを恐れ、その子を殺したうえに頼朝も討とうとしたが、次男の祐清が頼朝に急を知らせて北条時政の屋敷に逃がした。これで助かった頼朝は時政の娘の政子と結ばれ、時政の援助を得て治承4年(1180)に源氏再興の挙兵をした。