当麻山金光院 無量光寺(時宗)
相模原市南区当麻 標高:57.1m
1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。
中世から特に近世において、浄土宗(鎮西派)の寓宗となり、法式および人脈は浄土宗に依拠した。当麻上人は浄土宗寺院から入ることが多くなった。
明治期になり時宗大本山に指定され、寺法を有した(現在寺格、寺法は廃止)。 浄土宗の高僧山崎弁栄が1918年7月、61世住職に迎えられ、事実上の中興の祖となる。その徒弟養成のための学校が庫裡に設けられ、後に境内地に建てられた。学校法人光明学園相模原高等学校の起源である。
プラスに考える知恵の言葉 …… 一遍
「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
一遍は、伊予国の豪族・河野通広の子。河野氏といえば、瀬戸内海の水軍を率いた有力な武士である。しかし、承久の乱で京方について没落し、一遍が生まれたころは、かつての力を失っていた。
十三歳で九州におもむき大宰府の寺に入る。岩窟に日を過ごすこと六カ月、おもむろに山を下りた一遍は、家を捨て、妻子を捨て遍歴の旅に出た。
そして、五十一歳で他界するまで、その旅をつづけることになった。
遍歴の旅に出た直後、おりしも蒙古の大軍が襲来し(1274年、文永の役)、日本の運命を左右する嵐が吹き荒れようとしていた。
上記の語は、出発のころ、一遍が詠んだものとされている。
身を捨てる人は、ほんとうに捨てるのではない。かえって、身を捨てぬ人のほうが、なしくずしに人生を終わってしまうのだから、貴いいのちを塵芥のように捨ててしまうことになるのだ。
捨てる、とは「放下(ほうげ)」。こころの贅肉(ぜいにく)を取ること。
一遍上人当麻山留錫由来
弘長元年(1261)秋もなかばのことである。二十三歳の一遍上人は諸国遊行の途次、依知の里(厚木市)の路傍の一草堂(後の瑠璃光寺)に一夜の宿をとり、夜もすがら一心に念仏を唱えていた。するとちょうど
ま夜中どろ東の空が急に光りかがやいたので、眼をあげて見ると、中天におどそかな妙見菩薩の姿が拝まれた。菩薩は玉音涼しく
「善哉、善哉、わたしは久しい間お前の来るのを待っていた。当麻山はお前には宿縁のある山である。このところで修行を積めばよく衆生を済度することが
できる。念仏の功徳はやがてあまねく四海に及ぶであろう」
と告げられたかと思うと、たちまち菩薩の姿は月光の中に消え失せた。
上人はこのありがたい示現に感激し、夜の明けるのも待ち遠しく、相模川を渡り、東北の方樹々のこんもりと茂る亀甲形の丘の上にのぼった。そこには妙見さまの小さな祠があった。上人はその祠を金光院と名づけ、錫を留めて修行をつづけた。それが当麻山無量光寺の起りである。
明けて弘長二年(1262)二月、郷里の伊予からもとの家臣の関山通安・通昌兄弟が後を慕ってこの地に来り、
三十二歳の時と、弘安四年(1281)四十三歳の時であった。この弘安四年の時には、前年奥州へ遊行し、この年には常陸の国で布教を妨げた悪人の五体を利かなくしたり、三日の供養をした貧しい人が、その供養の奇特で、庭前の堀から蓮根三十貫を収穫したというような霊験を示して衆人の渇仰を集めた。夏のころ武州八王子から三度この当麻に杖を曳いたのであった。翌五年(1282)三月鎌倉に向って出発しようとした時、名残りを惜しむ弟子の真教や関山通安らの求めに応じ、水鏡に映した絵姿によって自身は頭部を刻み、弟子たちも力をあわせて
いろいろと身のまわりの世話をしたので、上人は大変喜んで一層の修行を積んだ。なおその後白井・小川の諸氏もおなじくこの地に来、これらの名跡を伝える家柄は現在でも当麻・下溝古山・田名新宿などに残っている。
こうして修行を続けるうち、いつしか二年足ら
ずの月日がたち、弘長三年(1263)五月二十四日父通広死去の悲報がはるばると郷里からもたらされた。上人は肉親を喪った悲しみにいても立ってもいられず、恩愛の涙せきあえず、急ぎ郷里伊予に立ち帰った。
その後の上人の当麻山留錫は、文永七年(1270)
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高麗門形式(17世紀初頭の建築と推定される。)
額の題字は小峰峯真(江戸時代中期-後期の書家)の筆。市指定有形文化財。
等身大の木像をつくり上げた。これが現在安置されているご本尊で、毎年十月二十二・三日の開山忌には開帳される。
参道をのぼりきった山門前、向って右側に亭々とそびえる大木がある。俗にさかさ木と称しているが、上人がこの場所に突き立った杖が、そのまま根づいて、
今に樹勢おう盛に茂っているのだと伝えている。樹はこの地方には珍しい南国産の「なぎ」の木である。前述した依知の瑠璃光寺にも、この木の切株の大きな木材が残されている。これらは上人の生国の伊予との関連も考えられ、杖が根づいて成長したというのは、どうかと思われるが、かっていつの時か伊予の国から
何本かの苗木が持参され、今にそのあとを残すものではないだろうか。しかし現在の樹齢はそう大して古いとは思われない。
(「相模原民話伝説集」 座間美都治著より)