当麻山金光院 無量光寺(時宗)
相模原市南区当麻  標高:57.1m
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「一遍上人当麻山留錫由来」

 当麻では何といっても時宗大本山当麻山無量光寺が大きな存在で、市の指定史跡になっている。宗祖一遍上人の遺徳を称える説話もいくつか伝えられているが、ここにはその二三を挙げてみよう。
 弘長元年(1261)秋もなかばのことである。二十三歳の一遍上人は諸国遊行の途次、依知の里(厚木市)の路傍の一草堂(後の瑠璃光寺)に一夜の宿をとり、夜もすがら一心に念仏を唱えていた。するとちょうどま夜中どろ東の空が急に光りかがやいたので、眼を
名づけ、錫を留めて修行をつづけた。それが当麻山無量光寺の起りである。
 明けて弘長二年(1262)二月、郷里の伊予からもとの家臣の関山通安・通昌兄弟が後を慕ってこの地に来り、いろいろと身のまわりの世話をしたので、上人は大変喜んで一層の修行を積んだ。なおその後白井・小川の諸氏もおなじくこの地に来、これらの名跡を伝える家柄は現在でも当麻・下溝古山・田名新宿などに残っている。
 こうして修行を続けるうち、いつしか二年足らずの月日がたち、弘長三年(1263)五月二十四日父通広死去の悲報が
あげて見ると、中天におどそかな妙見菩薩の姿が拝まれた。菩薩は玉音涼しく「善哉、善哉、わたしは久しい間お前の来るのを待っていた。当麻山はお前には宿縁のある山である。このところで修行を積めばよく衆生を済度することができる。念仏の功徳はやがてあまねく四海に及ぶであろう」
と告げられたかと思うと、たちまち菩薩の姿は月光の中に消え失せた。
 上人はこのありがたい示現に感激し、夜の明けるのも待ち遠しく、相模川を渡り、東北の方樹々のこんもりと茂る亀甲形の丘の上にのぼった。そこには妙見さまの小さな祠があった。上人はその祠を金光院と








はるばると郷里からもたらされた。上人は肉親を喪った悲しみにいても立ってもいられず、恩愛の涙せきあえず、急ぎ郷里伊予に立ち帰った。
 その後の上人の当麻山留錫は、文永七年(1270)三十二歳の時と、弘安四年(1281)四十三歳の時であった。この弘安四年の時には、前年奥州へ遊行
し、この年には常陸の国で布教を妨げた悪人の五体を利かなくしたり、三日の供養をした貧しい人が、その供養の奇特で、庭前の堀から蓮根三十貫を収穫したというような霊験を示して衆人の渇仰を集めた。夏のころ武州八王子から三度この当麻に杖を曳いたのであった。翌五年(1282)三月鎌倉に向って出発しよ
うとした時、名残りを惜しむ弟子の真教や関山通安らの求めに応じ、水鏡に映した絵姿によって自身は頭部を刻み、弟子たちも力をあわせて等身大の木像をつくり上げた。これが現在安置されているご本尊で、毎年十月二十二・三日の開山忌には開帳される。
 参道をのぼりきった山門前、向って右側に亭々と






そびえる大木がある。俗にさかさ木と称しているが、上人がこの場所に突き立った杖が、そのまま根づいて、今に樹勢おう盛に茂っているのだと伝えている。樹はこの地方には珍しい南国産の「なぎ」の木である。前述した依知の瑠璃光寺にも、この木の切株の大きな木材が残されている。これらは上人の生国の伊予との関連も考えられ、杖が根づいて成長したというのは、どうかと思われるが、かっていつの時か伊予の国から何本かの苗木が持参され、今にそのあとを残すものではないだろうか。しかし現在の樹齢はそう大して古いとは思われない。




「相模原民話伝説集 改訂増」より




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