門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。
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海老名 江戸時代初期に創建「龍昌院」
福山 古くは澳(沖)の御堂と言われ「本願寺」
尾道 現在はあまりにも小さい「磯の辨天神社」
鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」
尾道 尾道随一の名水『延命水』の「正念寺」
厚木 神奈川景勝五十選、飯山の観音さん「長谷寺」
鎌倉 源氏が衰退の原因か?「永福寺跡」
頼朝の死後。二代目の将軍になったのは息子の頼家。 こんな豪華な建物を受け継いだ頼家なんですけど。家臣たち、御家人たちは、「次の将軍さまは何やってんの」というような、不信感を抱いてしまった。それは、頼家がここで何とをやったのか? なのですが、二代目将軍頼家の永福寺での行いに、家来たちは不信感を募らせたといいます。
どんなことをやったのかというと、京都から文化人を呼び寄せ、遊びの名人を呼び寄せ、頼家はここでどんちゃん騒ぎや蹴鞠をやったり、遊び場にしてしまったのだという。しかも京都から人を呼び寄せており、武士よりも朝廷の貴族たちを大切にしているとして、家来たちが不信感を抱いていった可能性があるのだ、と思われます。
尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」
厚木 鋳物が盛んだった「鐘鋳神社」
鎌倉 薬師堂だけが残った「辻薬師堂」
御袖天満宮 から福善寺への小道!
【民話 力じまんの和七】
明治の初の頃のことです。尾道の港の仲仕たちは、畳表を上げ下ろしする表仲仕と、海産物を上げ下ろしする浜仲仕とに別れていました。
表仲仕の和七は心やさしく働き者でだれにもまして力持ちでした。
そんな和七の鼻をあかそうと、浜仲仕たちの考えたのが、天神さんの五十五段の石段を、三十貫の鉄棒を二本担いで下りることです。
この挑戦を和七はうけてたちました。そして当日、大勢の見物人に囲まれて和七は、六十貫の鉄棒をいっきに胸まで持ち上げると、石段の中程まで下りていきました。 しかしその後、和七は苦しそうになり足も遅くなりました。そして「天神さん、一生一度の力ですぞ。」と天神さんに誓うと、石段の中程まで下りていきました。しかしその後、和七は苦しそうになり足も遅くなりました。そして「天神さん、一生一度の力ですぞ。」と天神さんに誓うと、すべての力をふりしぼって、最後の一段を下りきりました。 その後表仲仕と浜仲仕のいざこざもなくなりました。
相模原市南区 多くの石仏がある「長松寺」
鎌倉 果てしなく大きな智慧と福徳がある「虚空蔵堂」
尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」
尾道や瀬戸田は、中世から瀬戸内海交易の中継地として発展し、江戸時代においても有数の港町でした。北前船が寄港するようになると、さらなる飛躍をとげています。
尾道では、1689年に薬師堂浜の西側を、1690年にさらに西の荒神堂浜を、1697年に土堂浜を埋め立てています。この埋立は商人たちの手によるもので、増大する船舶の出入りに応じる形となっていました。
この後、さらなる港の活性化に伴い、住吉浜の築造が急務となりました。そこで、広島藩は、直接工事を計画し、1740年尾道町奉行に平山角左衛門を任命。平山角左衛門は、翌年工事に着手し、住吉浜を築造しました。
(神社は昭和の初期までは、こちら側(海側)を向いていたようです。)



















