明月院(臨済宗建長寺派)
鎌倉市山ノ内  標高:29.7m ~ 38.4m
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 明月院のもともとは、北条時頼が建てた「最明寺」という自邸内の持仏堂がはじまりのようです。時頼の死後は荒廃し、子の時宗がそれを再興し、禅興寺としました。
 この禅興寺の盛時に塔頭として明月院が建立されました。

 本寺の禅興寺は江戸時代に衰退し、明治初年に廃寺とされ、明月院だけが残りました。
 1256年(康元元年)北条時頼(ほうじょうときより)は、山ノ内の屋敷のそばに建てた最明寺(さいみょうじ)で仏門に入り、1263年(弘長3年)最明寺北亭で亡くなりました。時頼の死後、最明寺は廃絶しましたが、1268年~1269年(文永5年~文永6年)ごろ、時頼の子の北条時宗(時宗)が蘭渓道隆(らんけいどうゆう)を開山として最明寺跡に禅興寺(ぜんこうじ)を建てました。禅興寺は、関東十刹(じっさつ)の一位に数えられるほど規模も大きく地位も高い寺で、1323年(元亨3年)の北条貞時(さだとき)十三回忌(かいき)のときに参加した僧の数は、92人でした。室町時代、この禅興寺の塔頭(たっちゅう)として山ノ内上杉氏の祖で法名(ほうみょう)を明月院と号した上杉憲方(のりたか)が、密室守厳(みっしつしゅごん)を開山に建てた寺が明月院だといわれています。一説には、山ノ内經俊(つねとし)が、1160年(永暦元年)に、その前年の平治の乱で戦死した父首藤(すどう)(山ノ内)俊通(としみち)の供養のために建てた明月庵が始まりともいわれています。その後、禅興寺は衰え、塔頭ではありますが一つの寺院のような規模をもつ明月院に付属したような形となり、やがて明治の初めに廃寺となりました。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 明月院にアジサイが植えられるようになったのは戦後。それまではなんの変哲もないお寺でした。垣根代わりに住職がアジサイを植え始め、次々と株を増やしてあじさい寺と呼ばれるようになりました。質素なお寺だった明月院かアジサイのおかげで有名になりました。
 石の門を通り総門をくぐると、アジサイがたくさん植えられた境内に出ます。参道を進むと、すりへった石段の上に「福源山(ふくげんさん)」の山号を掲げた山門をくぐると、正面に庫裏(くり)があり、左に進むと禅宗庭園を前にして、「方丈(ほうじょう)」の額を掲げ、本尊の聖観世音菩薩をまつる仏殿に出ます。
 仏殿から左に進むと、開山の密室守厳像を安置する宋猷堂(そうゆうどう)があります。宗猷堂というのは、禅興寺8世の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)が天皇から送られた宗猷大光禅師(そうゆうたいこうでんじ)という名からきています。
 宗猷堂の左の山際には大きなやぐらがあり、上杉憲方(のりかた)の墓といわれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)をまつってあります。やぐらの奥の壁には釈迦如来(しゃかにょらい)と多宝(たほう)如来とみられる像と、十六羅漢(らかん)像と思われる浮き彫りの像があります。
 また、宗猷堂の右側には鎌倉十井(じっせい)の一つである「瓶ノ井(つるべのい)」があります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より








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