明月院のあたりに最明寺を建てた、もと執権時頼は、最明寺入道(にゅうどう)時頼といわれました。人に知られないように僧の姿で全国を巡り、よい政治が行われているかどうかを調べたという伝説が室町時代以降に生まれ、次のような話が伝わっています。
時頼は、ある大雪の夜、上野(こうずけ)の国(今の群馬県)の佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)という元は地頭でしたが貧しい暮らしをしていた武士の家に泊めてもらいました。そのとき、常世が粟(あわ)のご飯を出し、薪(まき)が不足していたので、大事にしていた梅・桜・松の鉢の木を火にくべても
これは、「いざ鎌倉」という、武士が鎌倉にかけつけることの起こりとなった話で、「鉢の木」として有名な能にもありますが、鎌倉武士の心がまえをよく伝えています。
時頼という人は、武道をさかんに勧め、裁判の仕組みを整え、酒などを売ることをやめさせ生活を引き締めたということです。
寺宝は公開されませんが、彫刻では上杉氏の祖といわれる上杉重房(しげふさ)像(国重文)や北条時頼像(国重文)、絵画では明月院絵図(国重文)や建長寺の住職でもあった玉隠和尚像(国重文)、工芸では赤漆(うるし)に貝
てなしてくれました。そして、
「わたしは、領地をうばわれて貧しい暮らしをしていますが、馬と武具だけは、大切にとってあります。鎌倉にもしものことがあれぱ、真つ先にかけつけ、命をかけて戦う覚悟です。」
と言いました。
しばらくして、幕府から「鎌倉に集まれ」いう命合が出たので、常世ま真っ先にかけつけると、鎌倉で迎えたのは、大雪の夜に会った僧の時頼でした。時頼はこの心がけをほめ、取られた領地を取り返し、さらに鉢の木にちなんで、梅田(うめだ)・桜井・松井田(まついだ)という新しい領地も与えたというとです。