瑞泉寺は、臨済宗円覚寺派に属していて、禅寺としての厳粛で静謐な雰囲気を境内に漂わせている。
現在残っているのは、本尊の釈迦如来像が納められている本堂、庫裡、南北朝時代の彫刻で知られる夢窓疎石像の収蔵されている開山堂。そして、どこも地蔵の収蔵されている地蔵堂、復元された本土裏の庭園などからなり、往時の名刹の様子を今日に伝えている。
ところで、地蔵堂に安置されているどこも地蔵はと呼ばれる本尊の地蔵菩薩。どうして、どこも地蔵と呼ばれるのか。次のような話が伝えられている。
地蔵堂の堂主があるとき、生活の苦しみをお地蔵様に伝えたところ、堂主の夢枕にお地蔵様が現れてこういったと言う。
「くいしのはどこも同じなのだよ」と。
堂主はその一言で、われに返り、悟りを開いたと言う。その「どこも」という言葉が、この地蔵の冠されたのだった。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 発行:実業之日本社)
北条高時らの帰依を受けた夢窓疎石(むそうそせき)によって開かれ、鎌倉公方の菩提寺ともなりました。発掘調査により復元された初期禅宗庭園は、日本庭園の源流の一つで、国名勝です。
開山は夢窓国師(むそうこくし)(疎石(そせき))で、1327年(嘉暦2年)二階堂道蘊(どううん)がこの地に瑞泉院を建てました。この後、南北朝の時代に最初の鎌倉公方となった足利基氏(あしかがもとうじ)は夢窓国師に帰依して瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなると、瑞泉寺に葬(ほうむ)られました。以後鎌倉公方代々の菩提寺(ぼだいじ)として栄え、関東十刹(じゅっさつ)に名をつらねました。関東十刹とは、室町時代に定められた、幕府が関東地方で保護する臨済宗のお寺の格のことで、五山の次に位置づけられたものです。塔頭(たっちゅう)も十余を数え、義堂周信(ぎどうしゅうしん)のような高僧も住職となり、また訪れる高僧も多く、五山文学の中心の一つともなりました。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
夢想疎石は、この瑞泉寺を建立した際、背後の錦屏風山の山頂に編界一覧亭を造り、鎌倉五山の僧を集めて詩会を催し、鎌倉後期から室町時代にかけて隆盛した五山文学の基礎を築いたともいわれている。
この瑞泉寺が、花と文学の寺として知られるのも、そんな事情による。
しかし、隆盛を誇った瑞泉寺も、公方家4代の持氏の頃に室町幕府と対立し、持氏は三浦時高に責められて、自刃に追い込まれてしまう。この時期から瑞泉寺は急速に衰退していった。
復興されるのは、水戸光圀の力添えにより、本尊の千手観音が
鎌倉後期、南北朝時代の臨済宗の禅僧・夢窓疎石は『夢中問答』の中で
「人の天性まちまちなる故に、甘き物を好む人もあり、辛き物を愛する人もあり」といっています。
自分の価値観だけで他人を判断して、否定的にとらえるべきではないといっています。
寄進され、編界一覧亭も再建された江戸時代になってからのことである。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 発行:実業之日本社)
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男坂と女坂
左が旧道で「男坂」と呼ばれ、右のやや緩やかな石段は新道で「女坂」。
【吉田松陰留跡の碑】
瑞泉寺の山門の左手前に「吉田松陰留跡」の碑があります。1929年(昭和4年)徳菖蘇峰(とくとみそほう)の書で「山の青々とした竹の光が窓からさしこんでくる。方丈は奥深く、錦屏山(きんぺいざん)の
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